後悔を書く

「君のは、後悔だね」
「後悔ですか」
「そう。君の書いたもの、どれを読んでも後悔のにおいがする」
「…」
「何か心当たりが?」
「いや」
「まぁ心当たりがあるからって別にいいんだ」
「…それは、なくした方がいいんでしょうか」
「後悔を?」
「はい」
「いいんじゃないかな。それが味だって言う人もいるだろうし、それがあるから好きだって言う人もいるだろうし、もちろん全部が同じに見えると言う人もいるはずだ。でもそういうものだろう?私たちの仕事なんて」
「そう、ですね」
「ところで君はどうして私に?」
「え?」
「担当でも良かったろう。何も同業者に聞きに来なくても」
「…」
「嫌味かと思ったよ。まさか君に限ってそんなことはないと分かってはいるけれど、だって君はまだ新刊が出ればたいていの書店で平積みされる人気作家だ。落ちぶれた私に何の教えを乞おうというのか」
「先生は、大変な読書家でいらっしゃるので…。僕の本も、もう読んでくださっているだろうと…」
「なるほど、それもそうか。それで?君の気に入る答えは見つかったかな」
「…」
「では、ついでだ。前から思っていたことを言わせてもらおう。いち読者として、君の本に」
「何ですか」
「隠しているね、我々に」
「何をですか」
「君自身を。かの文豪はこんなことを言ったよ。『作家という仕事は裸で道の真ん中に寝そべるようなものだ』と。つまりすべてをさらけ出す。顔も名前さえも知らない赤の他人に。正気の沙汰ではないが、まぁ作家なんて総じて正気じゃないからね。それはいいんだ。だけど君はさらけ出そうとしない。ここまで後悔をにじませておいて、ここまで生々しく惨めったらしく過去を悔いておきながら、その実本当のことを見せていない」
「先生は見せているんですか」
「私の本を読んだことは?」
「すみません」
「まぁそうだろうと思ったよ」
「本は、読まないんです」
「どうして?」
「読めないんです。途中で苦しくなって、ページをめくれなくなる。たぶん、人に酔うんです」
「それでよく作家が務まるものだ」
「…」
「まぁ最近流行るものにはそこまでの気概を感じないものも多い。やたらと小難しい設定をこねくり回すだけで、人物描写は浅く、人間の真理をのぞこうとしない。どれもどこかで見たことのあるような展開ばかりだ。それに比べれば、自分の色が出ているだけ、君は幾分かましか」
「先生はどうして作家に?」
「想像はつくだろう?面白くもない理由さ。本の虫が作家に憧れるなんて、物語になりもしない。君は?聞いてほしいから尋ねたんだろう」
「僕は、よく分かりません。本は読めないし、文章を書くのも好きじゃない、勉強だってほとんどしてこなかった」
「君は無自覚に嫌味を言うな。あまり喋らない方が身のためだぞ」
「すみません」
「才能ってやつかな。分からないよ、私も、そんなことは」
「…後悔は、」
「ほう」
「鳥を、逃したんです」
「鳥?」
「小学生のとき。クラスで飼っている鳥だった。まだ誰もいない教室で、鳥かごの扉を開けた」
「それは何故」
「分かりません。先生はかわいそうだと思ったんだろうって言っていました。クラスメイトは日頃の憂さ晴らしだろうって。僕、あまりなじめていなかったから」
「鳥は、それからどうした」
「分かりません。でも、人のにおいがついた動物は野生では生きられないと、誰かが言っていました。あれは誰だったかな」
「それが君の後悔」
「それくらいしか思いあたりません」
「分からないな。その後鳥が死んでいたならまだしも逃したという事実だけだろう。クラスメイトに糾弾されたにしろ、どうせ最初から仲良くなどなかったんだ。気にするほどでもない。それがそこまで引きずるほどの後悔になるのか…」
「分かりません」
「分からないばっかりだな君は」
「…」
「まぁいい。私は君のカウンセラーじゃないんだ。心のうちを知りたいともどうしてやりたいとも思っていない。用が済んだなら帰ってくれ」
「はい」
「…あぁ、そう」
「はい?」
「さっき、本を読むと人間に酔うと言っていたね」
「はい」
「もしかすると君は、隠しているんじゃなくて隠れているんじゃないか」
「隠れている?何から…」
「君自身だよ。知りたくないんだ。君が、君自身を。だから小説も読めない。物語の醍醐味は登場人物への感情移入とそれに伴う未知の体験だと私は思っている。君は感情移入する登場人物に会うのが怖いんだ。だから物語という人混みの中で酔う」
「そうかも、しれません」
「まぁいい。余計なことを言ったね。いずれ本が読めるようになったら私のものも読んでくれ。ぜひ書店で買ってね」
「はい。ありがとうございました」
「はい、どうも。…人のにおいのついた動物は野生では生きられない、か。後悔のにおいが染み付いた本はいつまで人に読まれるのか。まぁ私には関係のないことだけれど」