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なぜ奈良ひさぎは二次創作の入口に「ウマ娘」を選んだか

今回は前回と打って変わり、そんなに周りの物書きにケンカを売るような内容ではないです。

奈良ひさぎは2013年12月に小説を書き始めた、キャリア10年になろうとしている物書きです。一番最初にプラットフォームとして選んだのはpixivですが、二次創作のイラストが盛況なpixivにおいて選んだのは、一次創作の小説という、最もマイナーと言っていいジャンルでした。以来、私は一次創作一筋で物書きとしての活動を続けてきました。今年までは。

過去記事で何度か上げている執筆報告において、
『ウマ娘二次創作「星語る織姫【アドマイヤベガ】」』
のように書いています。今年からついに二次創作を解禁し、その原作として「ウマ娘 プリティーダービー」を選んでいるのです。ただ、個人的には「二次創作に手を出すこと」そのものが、思い切った決断でした。

そもそも、二次創作は明確な「原作」が存在することによって、様々な恩恵を受けられます。元から知名度の高いコンテンツにあやかれるので、多少描写が不十分でも、原作の分かっている人間は背景知識で補えます。キャラやストーリー、世界観など設定を一から考えないといけない一次創作と比べると、作品を作り上げるうえでの難易度は圧倒的に低いです。
ただ、これをデメリットというか、とっつきにくい点だと考えていました。まずは「他人のふんどしで相撲を取っている」という点。これは二次創作をやる人間がよくよく肝に銘じておかなければならないことですが、たとえ二次創作で人気を博したとしても、それは100%自分の実力というわけではありません。他人のキャラクターやストーリーをベースにしているという点は、二次創作である限りどうあがいても変えられません。この「どこまでいっても完全に『自分の作品』とはならない」あたりが、私をためらわせていました。
もう一点は、「すでにある一定の『正解』が存在すること」です。公式が展開している世界観、ストーリー、キャラクターが原典かつ正解なので、二次創作でどれだけ寄せに行ってもそれは部分的な正解にしかなりません。二次創作と「オリジナル」の概念は相反するものとすら思っていて、オリジナリティを出せば出すほど原典から離れ、正解度が低くなってゆくという、皮肉に似た何かを感じます。そして、「じゃあガワだけ借りたものでいいや」と割り切ってifストーリーを描くのも、それはそれで違う気がして。他人の創作物を多少なりとも借りるのであれば、原典にある程度沿ったもの、つまり正解を求めに行く必要があるとも考えるのです。

とまあ、「お前二次創作に向いてないだろ」「息苦しそうなことばっか言いやがって」ということはよく分かっていただけたと思うのですが、ウマ娘については他の原典とちょっと違うようにも感じるのです。以下はそう思う理由になります。

まずは「公式がすでに二次創作である」という点。
言わずもがな、ウマ娘のコンテンツ自体が競馬を元ネタとしているので、ウマ娘の各種コンテンツそれ自体が二次創作扱いになるわけですね。もちろん史実だけでなく、脚色もふんだんに盛り込まれています(そもそも擬人化している時点で大いなる脚色ですので)から、例えばワンピースやヒロアカや呪術廻戦やらの二次創作と同じステージではないです。それに、そもそも競馬それ自体が現実であって創作ではないので、「競馬は一次創作ではない」し、「ウマ娘も厳密な二次創作ではない」のですが。ここでは原典をベースにした、オリジナリティも混ぜ込まれた創作物のことを二次創作と呼ぶという、ざっくりとした扱いで話を進めます。

次に「原典が非常に強固である」という点。
話がちょっとかぶりますが、元ネタになった競走馬のストーリーがしっかりしている(現実なので当然ですが)ので、ウマ娘というコンテンツ自体もキャラごとの個性がよく立っていたり、ストーリーに骨があると感じます。この点で、他のソシャゲをはじめとするコンテンツとは一線を画していると考えています。より具体的には、コンテンツの中でどう動いているか、ということ以外に、普段どうしているのか、その後どうなったのか、ということが想像しやすいかどうか。ウマ娘のバックグラウンドとして最深部の骨になる部分はレースですが、それ以外の部分も大いに肉付けがなされています。それが現実の競走馬と比較して似通っているかそうでないか(=ifストーリーになっている)はウマ娘個々によって異なりますが、キャラクター性や個性を持たせるという意味での肉付けが、殊このウマ娘というコンテンツについては非常に上手い。ゆえに、それぞれのキャラクターについてストーリーを理解すれば、一次創作で言うところの「ネタを思いついた状態」になり、あとは創作物を作り上げるまで決まったレールに乗ればいいだけ。これが、ウマ娘で二次創作(本記事的に言うならば三次創作)をやりやすいと感じる理由なのではないかと考えます。

もちろん、一次創作一筋でやってきた人間がいきなり二次創作に手を出せた理由はここにあるだろう、と予想したものですので、このあたりは人によって意見が異なると思います。ただ、特に二点目に述べた原作時点で強力なバックグラウンドが存在する、という話は、他のゲームにはそうそうないと思います。オマージュやパロディの範囲ではなく、はっきりと背骨が通っているという意味ですね。

ただし、これでもまだウマ娘の二次創作は難しいと私は感じています。創作はネタを思いついても、そもそもやろうとする人自体が少数派であり、形として完成させられる人なんてほんの一握りだという言葉を、創作界隈の人間であればどこかで聞いたことがあるかもしれません。ウマ娘はこの「よし、やろう」と思う一番最初のハードルを低くしてくれただけであって、結局その先、例えば短編小説として一つの作品を書き上げる工程は、自分の力とモチベーション次第です。また、あんまり奇をてらいすぎるとそれはもはや別作品なのでは、という思考はどうしても捨てきれませんし、捨てきってはいけないとも思います。どこまで原典に忠実に描いて、どこからオリジナリティを出すか、そのバランスをまだうまく取れていないことを自覚しています。
かつ小説であることが、より一層の縛りになっているような気もします。イラストであれば、例えばアドマイヤベガ(ウマ娘)の水着イラストを描いたとしましょう。そこにある情報は「ウマ娘のアヤベさんが水着を着て海辺でにこりとしてこちらを見ている」だけだったとしても、受け手はそれ以前やそれ以後のストーリーを自由に脳内で補完できます。その一瞬の直後にトプロが水をかけてくるかもしれないし、ドトウがずっこけて画角に入ってくるかもしれないし、高らかに歌うオペラオーが背後を横切るかもしれない。つまり一つの創作物に乗せるべき情報量が少ないわりに、受け手の自由度が高いので受け取れる情報量が非常に多い。原典への忠実度とオリジナリティのバランスも取りやすい。そのあたりが、イラストの他の追随を許さないメリットだと考えます。
一方で小説の場合、極端に言えば文字の羅列であって、行間で読者に状況を推察させるには限界があります。同じ「ウマ娘のアヤベさんが水着を着て海辺でにこりとしてこちらを見ている」という状況を伝えるにしても、十分に伝えるために乗せるべき情報量は圧倒的に多くなります。そして作者が乗せた情報が、100%読者に伝わるとも限りません。

ですので、私が二次創作をする時はいくつかレギュレーションを設けています。二次創作を部分解禁しているイメージですね。
○ウマ娘一人につき一篇書く。二篇目は全員分書いて一周するなど切羽詰まった場合に解禁。
○主にそれぞれのウマ娘がトレセン学園を卒業した後の話を書く。
○元担当トレーナーの一人称で書く。男性か女性かはウマ娘ごとのイメージで決める。

「ウマ娘 プリティーダービー」のゲームそれ自体にはいろいろ物議を醸すところがありますが、今回はそこには触れません。ゲームシステムがどうであれ、コンテンツとして強力なバックグラウンドがあり、かつコンテンツそのものが高クオリティである。二次創作をするうえでは、これだけで十分だからです。
まだ肩肘張っているところがあるので、進みは遅いですが、二次創作も少しずつ完成させていきたいと思っています。

今回は、こんなところで。

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