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別に文章なんて書かなくても死なないわけで

読みづらい文章を書くという点については、人より優っている自信がある。

私の書く文章はまず一文一文が長い。語彙が乏しい。表現の幅も狭い。ぐたぐだと同じことを繰り返すくせして、結論はぼんやりしている。加えて隙あらば脇道へと脱線していく。

もっとマシな文章を書けるようにするために為すべきことはただ1つだ。それは練習を繰り返すこと。緻密に言葉を紡ぎ、何度も推敲し、自分が納得できるまで文を書き直す経験を積めば良い。他でもないこのnoteで、その練習をすれば良い。それがわかっているのになぜ私は適当な言葉たちを書き連ねろくな推敲もせずにnoteにアップしてしまうことを来る日も来る日も繰り返しているのか。

それはおそらく、私が「誰かに何かを伝えたい」という思いで文章を綴っているわけではないから。

私は自分が書く文章を好きだと思えたことは1度もないものの、文を書くことが嫌いだったことはこれまた1度もないように思う。言い方を変えると、私は自分が書く文章は好きではないが、文章を書くという行為そのものは、好きだ。日記を書く習慣は気づけばもう10年以上も続いているし、子どものころは学校で定期的に課されていた作文の宿題が好きだった。自分は話すよりも書く方が上手く自分の思いを伝えられるのだと、長くそう思っていた。

中学3年生の頃、どういった話の流れだったのか、クラスメイトに「久方ちゃんは文章書くの得意やんな」と言われたことがある。彼女が私にそのような印象を抱くに至るようなことを言った覚えも、あるいはした覚えも、私にはまるでなく、なぜそう思うのかと聞き返した。すると彼女は、前年度の職業体験の感想文をまとめた学年文集を読んだのだと言った。
「面白かったよ、久方ちゃんの文」
日頃あまり言葉を交わすことのない彼女が、密かにそう感じてくれていたことにとても驚いた。

決して上手くはない私の文章なのに、小学生の頃から、私の文章を面白いと言ってくれる人たちが一定数いる。ありがたいことだ。でもそれは多分、私が上手く言葉を紡ぐことができているというわけではなく、たまたま私の頓珍漢な言葉を上手く汲み取って、それをポジティブにフィードバックしてくれる人たちに恵まれたという、それだけなのだ。

高校3年生になって少しした頃、卒業アルバム委員に決まっていたクラスメイトに突然声をかけられた。卒業アルバムの巻頭言と巻末言を書いてくれないか、という打診だった。思わず「なんで私??」と聞き返した。「久方、そういうの得意かと思って」少々逡巡したものの、お願いお願い、と頭を下げられ、結局私は引き受けることにした。良ければ参考に、と見せてもらった何代か上の先輩が書いたそれは思いの外ポエムチックで、ああそういう感じなのか……と思いつつ、なんとも抽象的な200字ほどの文章を2つ書き上げた。

そんなこんなで同期生の中高6年間分の思い出が詰まった卒業アルバムの最初と最後のページには、私が書いた文章が印刷されている。正直に言うと私は自分のその文章の出来栄えに全く納得がいっていなくて、アルバムの中のそのページのことを思い出す度に顔から火が出そうになる。アルバムを初めて手にしたその日以来、1度も読み返していない。

でも幸いなことに、巻頭言も巻末言も匿名の状態で載っている。アルバム委員の人たちと、それと私と親しい数人を除いて、あの文章を書いたのが私であると知っている人はいないはずだ。それで良い。「誰やねんこんなイタい文書いたんwwww」くらいのノリでいてくれたら。

( 何かの成り行きでこの文章を読むことになった中高時代の同期たちへ、今ここで読んだことはすべて忘れてください。それが無理なのであればアルバムの巻頭言と巻末言のページを糊付けして二度と剥がすことのできないようにしておいてください。 )

ほら、また関係のないことばかりくどくど並べ立てる。でも今回に関しては、この長ったらしい文章をまとめるために必要な要素を含んでいるからもう少しだけ付き合っていただきたい。

巻頭言と巻末言の原稿を提出してから少し経った頃、三者懇談があった。これまた何かの流れで、担任の先生が不意に「〇〇先生(学年主任)が、この間原稿見せてくれたんですよ」と母に言った。「あれは他の子には書けません」それはどっちの意味だ、それだけ酷いのか、と身構えたのも束の間、続いた言葉は「文才あると思いますよ」だった。

私の数少ない良いところを母に伝えるために咄嗟に出した話題だったのかもしれないけれど、文才云々はともかく、「他の子には書けない」という言葉が、なんとなく私にとってすとんと腑に落ちた。

私には、私にしか書けない文章があるのだ。

これは私に限った話ではなく、これを読んでいるあなたにだってあなたにしか書けない文章があるし、私が大好きなあの子にも、少し苦手なあの子にも、それぞれにしか書けない文章がある。

そんなそれぞれの文章が寄せ集まるのが、このnoteというプラットフォームだ。

「文章を書くのが好き」というそれだけの思いで「文章を書きたい」という欲を満たすのならば、メモ帳にでもパソコンの内蔵メモリにでも、人目につかないところで密かにただただ書いていれば良い。それなのにネットの世界に自分の書いたものを放り込んでいるということは、私はきっと心のどこかで、これを読んでくれる誰かがいてくれたら、と思っているのだ。文を書くということは私の自己表現の一部であって、他の方法で自己表現することがあまり得意ではない私は多分、「思いを文章にすること」に、人よりも執着している。

誰かを救おうなんて思っていない。誰かの役に立ちたいなんて思っていない。伝えたい強い思いなんてない。そもそも人の心に響く文章なんて、私には到底書けない。そもそも私がnoteに投稿しているのはなんの変哲もない日記か、自分語りがほとんどだし。

たまたま私の文章に目をとめてくださった方が、「ふーんこんなこと考えてるんだ」とか、「変なことする人もいるもんだな」とか、そんなことを軽く思ってくれるだけで、私は十分だ。「誰かに読まれるかもしれない」という前提のもと何かを書くのは、多分大抵の人にとってはそうだと思うのだけれど、誰にも見せない文を書くこととは全く違う。

そして私は、完全な自己満足で文章を書くのも、自己満足でありつつもnoteの海にそっと放り込むための文章を書くのも、両方とても好きだ。

下手の横好き、という言葉がある。その一方で、好きこそものの上手なれ、という言葉もある。両者の間には、果たしてどれくらいのギャップがあるのだろうか。いつか私の中のそのギャップが埋まる日は来るのだろうか。

そんなことは誰にもわからないけれど、私はきっとこれからも好き勝手に言葉を紡いでいく。


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