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追悼・瀬戸内寂聴さん

人生でいちばん大事なものは?と問うたとき
「それはもちろん、恋と革命よ」
と、即座に答えられたひと

「不思議なクニの憲法」スチール

いつかその日が来るだろうと思っていた。
2021年11月9日の朝6時過ぎに息を引き取られたという。
100歳を迎えられる半年前に、とうとうその日が来てしまった。
今日から、新聞で、テレビで、そしてネットで、どれだけ多くの寂聴さんの死を惜しみ悲しむ言葉があふれるだろう。私のようにほんのゆきずりにご縁があったに過ぎない者が思い出を語るなど、あまりに僭越なことかもしれない。
でも、あの偉大すぎる方の訃報に接した午後を、私も静かに面影を偲びながら過ごしたいと思う。

直接お会いしたのは、たった二度

若い頃から、寂聴さんが書かれたものは殆どすべて読んでいた。もちろん瀬戸内晴美時代の作品から。読んだ小説をきっかけに、その著者が若い頃、夫の教え子と不倫関係に陥り娘を捨てて出奔したことや、その後、大作家井上光晴との恋愛を断つために出家した日に、人気の小説家が剃髪をする姿がテレビで映されるなど、つねに世間の注目を集める女性作家の生身の姿を遠目に興味深く見ながら、女性の人生を考えてきた。
そんな「日本で最も有名な女性作家」とはじめて直接お会いしたのは、天台宗の僧侶になられて数年が過ぎた80年代のはじめ頃だったと思う。
その頃私は、女優の関根恵子さん(現・高橋恵子)があの世間を騒がせた逃避行と岐阜の山奥での謹慎期間を経て再デビューすることになり、当時私が経営していたプロダクションに所属することになって間もない時期だった。
再びマスコミの注目を集めるようになった恵子さんが、頻繁に紙面を飾った雑誌LEEの編集者から「瀬戸内寂聴さんが恵子さんに会いたがっていらっしゃるので、ぜひ対談を」ということで、お濠端のパレスホテルの一室でお会いしたのである。
私は単に女優のマネージャーとしてその場にご一緒しただけなので、特に個人的に言葉を交わす機会はなかったが、自分が愛読し続けた小説の作家と間近に接することができただけで、興奮も緊張もしていたことはよく覚えている。
私たちの待つ部屋に入ってこれらたとき、頭を綺麗に剃られ、浅葱色の袈裟を召されて現れた有名作家は、たしかまだ50代のはじめだった。若い女優の逃避行の経緯を目をきらきら輝かせて尋ねる姿に、なんと溌剌としてエネルギッシュな方だろうと、傍からただ眩しく眺めていた。

二度目は、京都嵯峨野の寂庵で

そして次にお会いしたのは、あのパレスホテルでお目にかかってから約35年もあとのこと。ドキュメンタリー映画『不思議なクニの憲法』をつくる構想の中で、インタビューリストのなかにどうしても瀬戸内寂聴さんを加えたいと思い、何の伝手もない方に宛てて、丸一日かけて長い手紙を書き終えると、ネットで京都・寂庵のご住所を調べ、自分が過去につくった映画作品のDVDとともにお送りしたのだった。
もちろん、93歳になられた大作家のもとには、引きも切らず取材以来があるに違いなく、また風の便りに最近は入退院を繰り返していらっしゃるとも耳にしたり読んだりしていたので、断られるのも当然と、ダメ元の気持ちで手紙をお送りしたのだった。
ところが、それほど間を置かない日に秘書の瀬尾まなほさんから、
「寂庵まで来てくれるなら取材を受けてもいいですよ」と思いがけないご返事を頂いて寂庵をお訪ねしたのは、2015年11月30日のこと。嵯峨野の紅葉が、赤や黄に染まる頃だった。

名称未設定 1

緊張する私たちの前に、紫の袈裟を着て、片手に数珠を握られて、満面の笑顔をたたえ現れた瀬戸内寂聴さんは、御年94歳とは思えないほど若々しかった。
もちろんお送りした手紙には、35年前関根恵子さんと一緒にお会いしたことなど書かなかったのに、取材している間じゅう、もう何年もおつきあいが続いているようなフランクさで接してくださったのが、今も心に残っている。あれだけ人と会うことの多い方が、まだご病気の床から離れられて間もないというのに、どうしてこんなにも親しくしてくださるのだろうと、不思議でならなかった。

スチール−3

スチール3

瀬戸内寂聴という人の、「比類なき個性」見た

あれだけ有名な大作家だ。カメラが回っているときの笑顔や如才なさは、これまでに見た数々の映像で存じ上げているものの、きっと93歳にもなられた超有名人だ。きっと真近にお会いすれば、時折垣間見せる威圧感や、気難しさなどがあるに違いないと思っていた。
ところが、私たちが寂庵にお邪魔していた3時間ほどのなかで、そんな様子を一瞬たりとも感じなかったのだ。それほど不思議なことはない。
そしてインタビューの間じゅうその不思議さについて考えるうち、この方が今日までの70数年の間、波乱の人生を歩まれながら、並外れた量の作品を書き、常人には考えられぬほど多数の人と会ってこられたその秘密は、この方生来の「真っ白さ」というか、誰にも真似のできない「アクのなさ」にあったのではないか…ということに思い至ったのである。
これは私だけの解釈かもしれないが、「大家」と呼ばれる人が持っている「威圧感」や「頑迷さ」といったものを微塵も感じさせない93歳。そんな老人は滅多にどころか二人といない。
そのおおらかさと人懐っこさは、解脱された僧侶だからでもなく、ただただこの方の類稀なる個性なのだということが、こうして真近にお会いしてはじめてわかったのだ。これが他でもない、瀬戸内寂聴という女性の「比類なき個性」なのだと。
そして一昨日、彼女はきっと彼女らしい「真っ白さ」のまま人生の終焉を迎えられたに違いない…。

「革命は、日々の営みの中にある」という教え

見ることもなくつけていたテレビから「作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんがお亡くなりになりました」と、アナウンサーの声を耳にし、て30分ほど呆然としたあと仕事部屋に駆け込んで、デスクトップのパソコンを立ち上げ、久しぶりに開けたハードディスクの中から5年前に紅葉の寂庵でインタビューしたときの収録素材を見る時間を過ごすうち、天国に旅立たれたく寂聴さんへの供養のつもりで新しい編集をしてみようと思い立った。
それをすれば、また違う寂聴さんに会えるかもしれないと。

そう。インタビューが終わって、カメラマンが機材を片付けている間、
「先生。人生で一番大事なものは何ですか?」と訪ねたとき、寂聴さんはもう一度「それはもちろん、恋と革命よ」と、インタビュー中に話してくれた言葉を言われたのだった。満面に無邪気な笑顔をたたえて。
それでもやはり、映像の中で見る寂聴さんはいつもテレビで見るままの方だった。
あの日嵯峨野でお会いしたときに感じた、不思議な「真っ白さ」というものは消えていた。
やはり錯覚に過ぎなかったのだろうか?
すべてのことを誰よりも正直に語っていらっしゃるのに、映像ではいつものように「瀬戸内寂聴」を演じられているように見えてしまう。
その謎を解く術はもう永遠に来ないのだと思うと、もう一度だけでいいからあの「真っ白な」寂聴さんに会いたくてたまらなくなった。

そういえば、インタビューの中にあった『美は乱調にあり』と『階調は偽りなり』を映画にできたらいいなと夢見て、その二冊の文庫本を繰り返し読んでは、何ヶ月も企画書を書いていた日々があったなぁ。
嵯峨野でお会いした直後に、何かで寂聴さんが背中の痛みに苦しんでいらっしゃるというのを知って、秘書の瀬尾さんに電話をし「私が受けている骨格矯正のクリニックをご紹介したい」とお勧めしたこともあったなぁ。
でも後日瀬尾さんから、「お気持ち嬉しく承りましたが、とても東京に出かけられる身体ではないので」と丁重なメールを頂くと、それっきりで終わらせてしまったのだったなぁ。有名な人には沢山の交流される方がおありだろうから、私などは…と、その時だけのご縁で終わらせてしまう悪い癖を、押して電話をかけるなんて、この私がよくしたなぁ…と思えば、やはり瀬戸内寂聴さんは私にとって「特別な方」だったのだ。

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