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なかほら牧場発、これからの食と農を考える⑦

森永ヒ素ミルク事件の記憶

昭和30年、日本は敗戦からの経済復興をして、「もはや戦後は終わった。」というフレーズも巷では囁かれていた時期でもある。前年の29年には学校給食法が施行され全国の学校で牛乳とコッペパンの給食が始まった。
戦前はほとんど飲むことがなかった牛乳の消費が右肩上がりで拡大し始めた時期でもある。この時期1万人以上の被害者を出した、牛乳が原因となった大きな食中毒事件が発生したのである。
昭和30年6月下旬から原因不明の発熱や下痢を伴う人工栄養児が岡山日赤病院に複数来診してきた。患者の共通点は森永乳業の徳島工場で製造された粉ミルクを飲んでいた。しかし森永は15年もの長きにわたって原因不明としてその責任を認めず患者を放置し続けた。
わが子を亡くした母親は「まさかこれに毒が入っていたとは知らなかったので、だんだん弱っていくわが子に何とか栄養をつけようと最後の日まで毒入りの粉ミルクを飲ませ続けて、こんなことになって。それというのも母乳が出ないからで、もし私のオッパイさえ出れば死ななくてすんだのに」と、嗚咽しながら語ったという。
その後、調査が進み第二リン酸ソーダーという乳質安定剤に猛毒のヒ素が大量に混入していたことが判明した。当時、冷却輸送は全くなく炎天下でもトラックの荷台で生乳を工場まで運んでいた。当然、乳温が上がり牛乳が腐敗してくる。それを抑えるために乳質安定剤として第二リン酸ソーダーが使われていた。その中に大量のヒ素が混入していたのである。
当時の牛乳の流通は冷却輸送がなかったため市乳と農乳という区分をしていた。つまり市乳は消費地に近い都市を中心に飲用向けに利用し、農乳は消費地に遠い農村地帯で練乳や粉乳などの貯蔵性の高い製品につくられていた。当時はまだ高温殺菌のシステムはなくバッチ式の湯煎殺菌が主であった。そのため雑菌の増殖が激しくしばしば不良品が出回ることもあった。
この責任を認めようとしない森永に業を煮やした弁護士が立ち上がった。「平成の鬼平」と呼ばれ、日弁連会長や豊田商事事件の被害者救済の弁護団長を務めた中坊公平氏である。中坊氏は政府への働き掛けや森永製品の不買運動をおこし15年目にして漸く森永は責任を認め患者への補償を始めたのである。
この食中毒の死者数は128人、12,159人の患者が発生した。(昭和31年2月25日現在)
患者たちは知的障害や手足の麻痺などの障害を背負ったまま後遺症に悩まされたり偏見による差別に苦しみ続けていたのである。
高度経済成長期に突入しようとしているこの時期、政府も大手企業の経済的隆盛を最優先する余り国民の生命を蔑ろにする風潮があった。それは水俣病をはじめ多くの犠牲者を出した様々な公害発生の根本的思想でもあった。
この様な大きな食中毒が発生したにもかかわらず、その後も牛乳製品の消費は拡大し続けた。

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中洞 正(ナカホラタダシ)
1952年岩手県宮古市生まれ。酪農家。
東京農業大学客員教授、帯広畜産大学非常勤講師、内閣府地域活性化伝道師。
東京農業大学農学部在学中に、草の神様と呼ばれた在野の研究者、猶原恭爾(なおはらきょうじ)博士が提唱する山地酪農に出会い、直接教えを受ける。卒業後、岩手県で24 時間 365 日、畜舎に牛を戻さない通年昼夜型放牧、自然交配、自然分娩など、山地に放牧を行うことで健康な牛を育成し、牛乳、乳製品の販売を開始。
牛乳プラントの設計・建築、商品開発、販売まで行う中洞式山地酪農を確立した。
著書に『おいしい牛乳は草の色(春陽堂書店)』、『ソリストの思考術 中洞正の生きる力(六耀社)』、『幸せな牛からおいしい牛乳(コモンズ社)』、『黒い牛乳(幻冬舎)』など。

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