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断捨離⑤ 21歳のときに演出した芝居の思い出

一冊の大学ノートにびっしりと書かれた幼い文字の、拙い戯曲。
公演の台本やプログラム、写真などはすべて捨ててしまったようで今では何ひとつ残ってないが、大学3年の夏にはじめて学外の日比谷・第一生命ホールを借り切ってした舞台公演・ツルゲーネフの『初恋』の脚本の、自筆の初稿だけが残っていた。この芝居については、いろいろな思い出がある。

女性が主体となってつくる芝居を

21歳を迎えた私の胸の内には、もうフェミニズムの萌芽が育ち始めていたのだろうか。演劇科のクラスメイトの武田さんと語り合うち「男が書いたり演出したりするのでなく、女がつくる芝居に挑戦してみない?」という話になって、脚本も演出も制作もすべて私たち女の力でやってみよう、それもいつもの大隈講堂で学生だけに見せるのでなく学校の外に出て広く観客を募るものにしようと夢がふくらんだ。
そして二人で選んだ出し物が、自分たちの手で脚色するツルゲーネフの小説『初恋』だったのだから、今となってはなんとも面はゆい。
脚色と演出は私、制作は武田さんが担当することになって、キャスト以外は「できる限り女性の手で」を売りにしようという、怖いもの知らずの挑戦だった。

早稲田の教室を借りて毎日の稽古にいそしんでいたある日、制作の武田さんが、「ビッグニュースよ!」と言いながら、満面の笑顔で部屋に飛び込んできた。
「スロープ(文学部の校門を入って、教室群のある建物に向かう緩やかな坂道を私たちは”スロープ”と呼んでいた)で吉永小百合に会ったのよ。それでね、私たちがつくる女の芝居のチラシに推薦文を書いて欲しいとお願いしたら、書いてくれると言ってくれたの!すごいと思わない?」
吉永小百合といえば、私たちと同時に二文(夜間の部)の史学科に入学した彼女がたまに昼間の授業を受けるためにキャンパスに姿を見せると「いたぞ、いたぞ!」と誰かが叫ぶ度に男子学生たちが一斉に教室から飛び出していった、あの人気女優である。
日頃、私たちには目もくれない男子たちが、猫も杓子も「小百合はどこだ?」と探し回っているのを恨めしく思っていたものだった。
そんな「女子学生の敵」だった吉永小百合さんに、スロープですれ違っただけで、一面識もなかった武田さんがチラシに一文をお願いしたのも大したものなら、二つ返事で引き受けてくれた吉永さんも、若い頃からなかなかの人だったに違いない。
後日、彼女から渡された推薦文の中身は失礼ながら何ひとつ覚えていないものの、チラシを飾ってくれた「吉永小百合」というきらきらとした文字が、公演のチケットを売るのにはたいそう役立ってくれたことを、懐かしい青春の日のエピソードとして、感謝とともに思い出す。

フジテレビのアナウンサーになった主演男優

さて、話は『初恋』公演の思い出に戻ってー。
残っていた大学ノートの後半に書かれたキャスト名を見ると、演劇科のクラスメイトはたった一人だけで、ほかはミュージカル研究会の先輩や、かつて在籍した石坂浩二さんの劇団<ふえろう>で出会った仲間たちの名が並んでいる。
主役のジナイーダ・アレクサンドロヴナには、後に銀座のクラブのママとなって活躍した、当時まだ高校生だった片桐雅子さんがその美貌で決まったが、相手役のウラジミール・ペトローヴィッチの役にふさわしい人がなかなか見つからなかった。あちこち探し回り、何度もオーディションをして、やっと決まったのが当時慶應大学の2年生だった須田哲夫さんだった。

公演のときのことはほとんど記憶がないが、ルックスだけで「ウラジミール役は、このコに決まり!」と選んだ須田くんがとにかく不器用で、役者の才能が微塵もないのに苦労させられたことだけは、何故かおぼえている。
その、私に毎日怒鳴られてばかりいた須田くんが、慶應大学の卒業時の就職試験でフジテレビに受かり、アナウンサー室に配属になったと聞いたときはほんとうに驚いた。
「あの須田くんにアナウンサーなんてできるの?」と、私と武田さんは首を傾げたり心配したりしていたが、あっという間に『奥様スタジオ・3時のあなた』という午後の人気ワイドショーに抜擢されて、高峰美枝子さんや扇千景さん、森光子さんといった錚々たる大女優の隣りで立派なアシスタント役を、なんと10年もの長きにわたって勤められたのだから、人の運命というものはほんとうにわからない。
その頃、須田くんより一年前に大学を卒業した私は就職もせず、早稲田の同級生だった男と一緒に小さな劇団をつくって、細々ながら貧乏芝居を続けていた。
「あの須田くんがねぇ」と言いながら、ブラウン管の向こうで成長していく彼の姿を眩しく眺めるうち、須田哲夫さんは私などには手の届かない世界でビッグなアナウンサーになっていくのだった。

ニューヨークでの再会

そして私の思い出話は、あの『初恋』の公演をした頃から35年ほど後のエピソードへと飛ぶことになる。
自分ははや55歳になった頃だろうか。二本目に作った映画『折り梅』がモントリオール映画祭に招かれたり、国内では100万人の観客動員を果たそうとしていた頃に一作目の映画『ユキエ』のプロデューサーだった吉井久美子さんが、ニューヨークのジャパンソサエティでの『折り梅』上映会を企画し、映画と私を招いてくれたのである。
上映会の何日か前にニューヨーク入りした私は、久美子との夕食の席のお喋りのなかで「そういえば、今ここにフジテレビの特派員の須田哲夫さんがいるでしょ。彼が学生時代に一緒に芝居の公演をしたことがあるの」と、ついつい口を滑らせたのだった。
「ほんとに?だったら宣伝してもらいましょうよ。須田さんがテレビで宣伝してくれたら鬼に金棒!」と、久美子がすっかりその気になっている。今でもあるのだろうか?当時フジテレビは、テレビジャパン?とかいう局のニューヨーク限定放送の番組をもっていた。
「もう40年近く昔のことよ。それ以来会ったこともないし、私のことなんか覚えてないわよ」と尻込みをする私にお構いなく、久美子は翌日早速テレビ局にとんでいったらしい。
「松井さん、すごいですよ!須田さんが何か企画を考えてくれることになったのよ!」
「……!嘘でしょ。私のこと、覚えていてくれたの?」
「覚えていたなんてもんじゃありませんよ。松井さんは学生時代にお世話になった僕の恩人なんです。松井さんの役に立つことなら何でもしますって、言ってくれましたよ!」
「そんな…!私はあの頃、毎日のように彼を怒鳴り飛ばしていたのよ。怖いおばさんと言ってなかった?」
「ぜんぜん。恩人ですよ、恩人!」

かくして、とんとん拍子に話が進み、翌日にはセントラルパークでフジテレビの看板アナウンサー須田さんのインタビューを受けるという光栄にあずかることになったのだった。
再会した須田さんは、ブラウン管で拝見するままの立派な紳士になっていて、
「お久しぶりです。その節はお世話になりました。嬉しいなあ、松井さんが映画監督になられたなんて!」と、あの20歳の頃の鈍臭い(失礼!)須田くんが、いまはセントラルパークの樹の下で、30分もにわたる長いインタビューを、立派に、温かく務めてくださっているのだった。
須田さんの友情による番組のおかげで、当日のジャパンソサエティーは満席の大盛況となり、招待席には奥様と観にきてくれた須田哲夫さんの笑顔があった。
あのニューヨークでの再会以来一度もお会いしてないが、その後日曜日の朝の報道番組でも長年キャスターを務められていた姿は、毎週楽しみに見ていた。
その後定年を迎えられて画面越しにも会えなくなってしまったけれど、きっと今でもお元気に、講演などで活躍されているに違いない。

段ボールの中に『初恋』の脚本を書いたノートを見つけ出して、21歳のときに演出した舞台公演の記憶について書こうと始めてみたが、自分が若い頃に始めた書いた脚本を読み返すだに稚拙な、取るに足りないものであった。若い仲間たちと一緒に演出の真似事をした半世紀以上前の記憶も、細部については遠い記憶の彼方に消え去ってしまっている。それで内容がタイトルとはぜんぜん違ったものになってしまったことを、読んでくださった方々にお詫びしたい。
実に、過去のもので後生大事にとっておきたいものなんて何もない。75歳になってそのことを痛いほどに知ったのが、21歳のときに書いた脚本『初恋』であった。










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