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階下から聴こえるギターの音色②ご機嫌のこと

隔週火曜で更新🖊️としたけれど、
年末年始もはさむので
今週も更新することにした。
お付き合いください。

今日は、機嫌のことについて書こうと思う。
ゴキゲンのこと。

先日1年半近くぶりに高熱を出し
数日寝込んだ。

家族にうつさないため
5日間もひとり部屋で眠ったのは
子どもが生まれて以来はじめてだった。

二晩で解熱したので、そのあとは、
眠る前に布団で読書したりとか
お茶を飲んだり
やっぱりちょっとウキウキもした。

3日目くらいに娘がぽろりと涙を見せたので
早く良くなって一緒に眠りたいと
さすがに日常が恋しくなったり
すぐに大きくなっていくのだろう子らの
その日々を想い
わたしの心は聖母のごとく微笑んでいた。

でも、快復早々、あっ!という間に
いつものイライラが押し寄せ
(その波に乗っかるのは自分だけど)
一転する自分に心底がっかり・・・

と同時に
日常の骨太さに眩しさをおぼえ
ひっくるめて笑える感じに
あっぱれだと、思い至った。

いや。
正確には、まだ笑いに到達する前のあわい。
(そうだ、たしかにその「あわい」滞空時間が
前よりちょっと長くなった母11年目)

少し前ネットか何かで目にしていた
「いい女の条件」のひとつとして
「自分で自分の機嫌をとる」とかいう項が
紹介されていて、
しかもそれが男性目線の記事で、
なんだかまるごとゲーッとなったこと。

ほとんど素通りしていたんだけど
この「あわい」のときに思い出した。

続けて、やっぱり数日前
久しぶりに行った図書館の
雑誌コーナーでざらっと眺めた
「自分時間!」「ご褒美タイム」
それ系のコピーというか見出しの数々に
違和感をおぼえたこと。

それもあわせて思い出してしまった。


いや、確かにそうかもなんだけど。
でも。
と、どこかでわたしは思っている。

イライラしたり気が滅入ったり
自分のゴキゲンすら自分でとれない
そんな瞬間って
生活しているといくらでもあるよ。

そもそもイライラしてても良くないか?
あらゆる感情がもっとそのままに
大切にされてもいいのでは、
と思う。

ああ、それね、
ゴキゲン系のこと。
わかるー。
でも、今はひとまず置いておこっか。

そうやってうなだれた肩を
ぽんぽんとしてやりたい日。
ありません?

自分の機嫌をとるというのは、
暮らしの術とも
生きる知恵ともいえる。

でも、
どんな心持でもいい、
今日を無事に渡り切れれば。
明日はそれでもやってくるから。

そんな切実な日々が
人生には多かれ少なかれ誰にでもあって

そのとき助けになるオールや杖として
アロマやお茶や小旅や散歩・・・
心躍るものはいくらでも挙げられるけど

息つく暇もないときに
これらのことを思う方が苦しい。
そういうときは、やっぱりあるから

「機嫌のことは置いておきましょう」
という、見出しなんかも
雑誌やネットのサムネイルで
もっとあっていいよね、と思ったし
ないなら、どしどし提案したい。


ところで
「自分の感受性くらい」という
茨木のり子さんの有名な詩がある。

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

「自分の感受性くらい」より/詩:茨木のり子


これも、そのようなことを
言っているのではと
ふと思う。
少なくても
自分の機嫌は自分でとりましょう
という詩ではないように思う。

どちらかというと、
安易なご機嫌とりでごまかすな、
というふうに読めなくもない。

「ぱさぱさに乾いた心」
「気難しくなってきた」
「苛立つのを」
「初心消えかかるのを」
そして
「駄目なことの一切を」
「自分の感受性くらい」を

無様でいいから
人に見せられるものでなくてよいから
そこで生きてみなさいと
言われているような気がする。

このエッセイをはじめるにあたり
私の脳裏には
こだわりや、芯という言葉が浮かんだ。

以前に自分で書いた詩で
自分の芯があるならば、
出産時に子と共に産み落としてしまえば
よかったと
綴ったことがある。

しがみついてしまう、自分らしさ。
しがみついてしまう、自分の色。
しがみついてしまう、自分のご機嫌とり
自分の、感受性。

人は刻一刻と変化している。
赤子の成長は目を見張り
それをまざまざと見せつけられる日々
だのに自分自身の変化は
なぜ容易にゆるせないのか。

何を通し
何を守ろうとしていたのか。

要らないな、と思った。
もう太刀打ちできないと悟った
そのときに、
「こだわり」なんて
持たなければ良かったと思った。

今はそうとは言い切れないけど
よくよく注意したいと思う。
こだわりや
機嫌や
芯、とかよばれるそのものが
今の、今日の自分にあっているかどうか。

芯に合わせるがゆえ
身体が痛みを訴えてはないか。

余裕なぞあいかわらずなくても
安易に選択してしまわずに
眺めたいと願うのは
正直でありたい
ということと通じる気がする。

違和感のある音が
自分の口から発せられてはいないかどうか。
目をつむり、
前頭葉でひねくりまわさず
背を感じる。
目をつむり、
違う瞬間を生きている
誰かを想う。
その人の背にもあたっているであろう
西日を想う。

わたしたちは、繋がっている。

ひとりひとりが
正直であることが
ゴキゲンであること以上に
この世界に影響し
何か大事な均衡を
もたらしているかもしれない。

それはエゴではない。


あぁ、今年も暮れていきますね。

機嫌のことは置いておいて
くる年も
どうぞよろしくおねがいします。

そんなふうに、わたしは言いたい。





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