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「鎌倉殿の13人」が面白すぎるので誰かと話したすぎたが相手がいないので書きすぎた。

鎌倉殿の13人、いよいよである。
と、ずっと言っている気がする。

「いよいよ頼朝が挙兵」「いよいよ源平合戦」「いよいよ鎌倉幕府」「いよいよ13人の合議制」そして今回のいよいよは「いよいよ北条義時」であるわけだ。つまりいよいよ主役が真ん中にきたのだ。「鎌倉殿の13人」の主役は北条義時である。

しかし、タイトルは「北条義時」ではない。

タイトルで主人公が分かるかどうかは、その年の大河ドラマが描こうとするものを考えるときに分かりやすい指針である、と勝手に思っている。

ここ十年のタイトルでは「青天を衝け」「麒麟がくる」「いだてん~東京オリムピック噺~」「西郷どん」「おんな城主 直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」「八重の桜」「平清盛」。約半数が主人公の名前である(「真田丸」含む/「八重の桜」含まない)。

「平清盛」「西郷どん」などはもうそのままで勝負できるS級知名度人物。「おんな城主 直虎」「軍師官兵衛」などは補足が必要な知名度だがその【補足ワードにこそ描きたい狙い】があったりする。

一方で、タイトルからは主人公は想像できない、扱う時代も分からないもの。こちらはタイトル論的には(そんなものがあるのか分からないが)研究のしがいがある。最近では「青天を衝け」「麒麟がくる」「花燃ゆ」などは主人公どころか、扱う時代もタイトルからは一般的には分からない。

当然制作されるみなさんがタイトルを考えるわけで、そのときに描きたいものが主人公の生き方である場合は前者(主人公タイトル)、その時代とその中で生きた人々を描きたい場合は後者(主人公不明タイトル)になったりするのではないかと推察できる。そして後者の場合は比較的知名度が高くはない人物が主役になる場合が多い。

では「鎌倉殿の13人」である。

前述の分類からしても、これは少し不思議なタイトルなのである。まず主人公は北条義時であるが、それはこのタイトルからは分からない。ということは先ほどの分類の後者かというと「鎌倉殿」という主人公ではない人物名と思しきものが入っている。そして「13人」というこれまた人物を指す言葉も入っている。北条義時とは歴史的にはその中の一人である。(もちろん三谷脚本ということで「12人の優しい日本人」を想起はするが)。

やはりこれはなかなかに不思議なタイトルである。たとえば坂本龍馬が主役なのに「勝海舟の弟子たち」というタイトルにするようなものである(こう書いてみると洒落ている気もする)。たとえば豊臣秀長が主役なのに「秀吉の弟たち」というタイトルにするようなものである(こう書いてみると興味深くはある)。ただ「鎌倉殿の13人」は意味が少し違っている。このタイトルが言いたいのは特定の人物のことでも、時代のことでもなく、「13人の合議制」のことだからだ。

付け焼刃のお勉強ではあるが二代将軍源頼家(=鎌倉殿)を抑え込むために、何かを決める際には13人の御家人たちの了承が必要という制度(取締役会のようなもの)が実際にあったことからついたタイトルなのである。ということは「鎌倉殿の13人」が描きたいものは人物でも、時代でもなく、この制度とそれにまつわるコトやモノだと解釈できる。

一度その視点で物語を見返してみたい。

ここにまず13人が誰なのかを記す必要がある。私ははるか昔受験を日本史で受けたものの、まったくもって一人も知らなかったどころか合議制というものがあったということも忘れていた。いや嘘、まるで初耳だった。

北条義時、北条時政、比企能員、和田義盛、梶原景時、足立遠元、三浦義澄、八田知家、安達盛長、大江広元、中原親能、二階堂行政、三善康信。である。ハアハア。漢字を確認しながら書くので一苦労だ。歴史的、また物語的知名度でいうとこの中にS級、いやA級の人もいないのではないか。だが彼らは確実に今回の大河ドラマのタイトルに「いる」人たちなのである。

そして、このタイトルにおける鎌倉殿とは頼朝のことではない。まずは頼家のことだ。頼家が鎌倉殿になり、13人が明確になった。タイトル回収として素晴らしかった。その後の展開は、歴史を知る人、また私のようにこれを機に少し歴史というネタバレを見に行った者からすると「13人がこうなるのか」「鎌倉殿がそんなことになるのか」となかなかに衝撃的であった。「そして誰もいなくなった」のそれに匹敵するような展開である。

物語は13人が主役となってから混乱する。血で血を洗う。源平合戦、鎌倉幕府、頼朝、義経などの大きな出来事や人物に隠れた(ように見える)出来事の数々の凄惨さを知る。そして「楽しんだ」。

ここで気が付く。このタイトルには視聴者へのそんな楽しみ方が込められているのではないか。

なぜ楽しめるか。それは知らないからだ。

そう、「鎌倉殿の13人」というタイトルは視聴者に対して「13人の合議制(を含む鎌倉時代初期の歴史)」を知っているか知らないかの線引きをするタイトルなのだ。

それによって【歴史というネタバレ】を見るのか見ないのか。当然知らなかった側の私は先日の放送でも「時政って殺されるの、どうなるの」と楽しむことができた。もちろん史実に基づいているのだけれど、知らないからまるでフィクションのように楽しめる。知らないということは楽しいということなのだ。もちろんそれは諸刃である。本来知らないと見る気が起きないし、勉強するのも面倒だ。だからもともと有名な人物ほど物語になりやすい。知られていない歴史というのは資源ではありつつ、知られていないがゆえに下駄を履けない。作り手は知りたくなる描き方をしなければならない。

三谷幸喜さんという脚本家がすごいのは、一人ひとりの登場人物が「突然輝きだす」ことだ。もちろんそこまでも脇を固める登場人物としては魅力的なのだが、その人物が主役の回になると「突然輝きだす」。今回も序盤から最近の全成や梶原、比企、畠山などのストーリーのカメラが向いた瞬間の輝きが圧倒的であった。その人物たちの選択や結末は「歴史上」決まっているので変えられない。でも描き方でその選択や結末を磨くことはできる。視聴者はフィクションのドラマを見ているような感覚に陥る。途方もなく難しい作業なのだが、「鎌倉殿の13人」を見ているとそれがあまりにも自然な流れの中で消化されていて感動する。原作は歴史、脚色は三谷幸喜、なのだ。

「知らないから楽しくない」を「知らなくても楽しめる」にして、さらに「知らないから楽しめる」までに昇華した。これが「鎌倉殿の13人」が達成したことだ。タイトル論的にはこう結論付けたい。

やっと内容への私見が書けるが、

「鎌倉殿の13人」というドラマは「そこで誰が一番怖いか」を描いている気がする。最初の「一番怖い人」は平家と平家側の武士たちである。次は源頼朝である。そして義経。後白河法皇。梶原景時。源頼家。比企能員。北条時政。そしていよいよ北条義時。などなど時の流れとともに「一番怖い人」は変わっていく(別の意味でずっと怖かった善児)。

それぞれの怖さの質も違う。平家の怖さは権力だった、頼朝の怖さは執念だった、義経の怖さは才能だった、後白河法皇の怖さは遊びのような目的のなさだった、梶原景時の怖さは孤独であることだった、頼家の怖さは若さだった、比企の怖さは北条へのコンプレックスだった、時政の怖さはりくへの愛だった。

怖さを作り出すのはそれぞれが持っていた「何よりも優先すべきこと」だ。それを持っている人は強いが、怖い。そして他の誰かにとっては理解ができず敵視される。

では、北条義時にとっての「何よりも優先すべきこと」は何であるか。怖さの理由とは何か。劇中では鎌倉のため、と繰り返すようになったが、どこか本心ではない気がする。あと三か月でそれが描かれるのだろうと思う。毎週のようにいろいろな人が悲劇的に、また魅力的に散っていったあとだからこそ描けるものがあるはずだ。「いよいよ」本題に入るのだ。まるで九か月かけてたっぷりと引いた弓から矢が放たれるように。

歴史に名が残ったかどうかは、結果である。後日の創作のされ方や、そもそも後日の世の中の状況によるのである。時には善悪でさえ入れ替わる。義時は善か悪か。そんなことはどうでもいいのである。これはドラマなのだから。彼がなぜそうしたのか。理由にしかドラマはない。そう信じる人が作るものはこんなにも面白い。

最後にタイトル論に戻ると、この13人という数字。入れ替えがきくのではないかと思い、ちょっと恐ろしくなった。

「今の13人」とは誰か。歴史は、物語は、常に群像である。結果なんか、面白くない。

#鎌倉殿の13人 #ドラマ #テレビ #コラム

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