ブギーポップアンブレラ/雨上がりの恋路8

 折枝鼎は工場を後にしようと脱出用通路を歩いていた。
 手駒にしたはずの四人の傭兵の断末魔は鼎の元にも届いていた。
 そして外に控えているはずの協力者とも連絡が取れなくなっている。
 状況は不利な方へと進んでいると考えた鼎は、これ以上この工場に留まっている意味はないと判断したのだ。
 残された手駒である傭兵の最後の一人、傭兵部隊イーヴィル・エンパイアの傭兵長を恋路へと差し向けているが、他の傭兵があっさりと始末されたらしいという状況から推察しても、彼が恋路をどうにか出来るとは考えにくい。
(彼の……雨理恋路の実力を私は見誤っていた。けれど大丈夫。私の心はまったく動揺していないもの。窮地だとも思えない)
 その自信の源を鼎は両手で大切に抱きかかえていた。
 それはなんの飾り気もない銀色の筒だった。
 おおよそ茶筒を一回り大きくした程度の、胸に抱えられるほどのサイズの筒―――それを手にした時から折枝鼎はどんな相手にだろうと負けないという自信が溢れてきていた。
 筒の中は特殊な液体で満たされていて、その中には小さな苗が浮かんでいる。
 その苗こそが破壊兵器ロックボトムなのだった。
 液体に浸けられている時はただの苗だが、一度空気に触れ大地へと接触すれば爆発的に成長し、地脈を操り大地震を引き起こす。
 そんな凄絶な兵器を前にしては、恋路なんてひとたまりもないだろう。
 いや、世界を裏で牛耳る統和機構とてうかつには鼎に手を出せなくなるはずだ。
 世界を滅ぼしかねない兵器と鼎の持つMPLSとしての能力、その二つが合わさってしまった今、折枝鼎が絶大な自信を持つことは当然とも言えた。
(けれどロックボトムを安易に使うわけにはいかないわ。使い時を見極めなければ……私自身ロックボトムの破壊に巻き込まれては元も子もないのだから)
 だからこそ、ここで恋路と対決するべきではないのだ。
 条件と場所を精密に計画立てて、使う時はたった一人の少年を始末する為だけでなくもっと大局を見極めなければ―――。
 と、そんなことを考えながら足を進めていた鼎だったが、
「……?」
 立ち止まりふと背後に視線を向ける。
 立ち止まった理由はかすかではあるがなにかの音色が、長い通路の向こうから聞こえてくるような気がしたからだ。
 鼎が注意深く耳を澄ますと、暗く長い通路の向こうから口笛のような音が確かに聞こえてきた。
 口笛が奏でているのはニュルンベルクのマイスタージンガー―――その音色は段々とはっきりしたものになってきて、そしてふいに耳元で声がした。
「折枝鼎―――君が向おうとしている先は、ただの暗黒だ」
 恋路の声が脱出用の細い通路に響いたのだ。
 途端、鼎は周囲を見渡したが恋路の姿はどこにもない。
 ただ鼎の視界の隅で、まるで筒のような黒い影がちらりと揺れた気がした。
「どっ、どこに居るんです。隠れて、私を狙っても無駄ですよ!」
「無駄……無駄なのはどちらだろうね。君のこれまでの行動はただの勘違いの積み重ねで、君には最初から敵対する相手など居ないのかもしれないのに」
 やはり恋路の姿は見えないが、声だけはまるで目の前に居るかのように明確に聞こえている。
 鼎は姿の見えない恋路に対して、ムキになって声を上げた。
「勘違いだなんてっ、そんなはずないわ! だってあなたは私の敵よ―――そう、悪党で悪しき組織の先兵で、それで世界の敵なんだもの!」
「世界の敵―――だとしたら僕がこうして現われている理由にも納得が行く」
「なにを人ごとみたいに……!」
「人ごとなのは君にとって、なのだけれどね。だって君は世界の敵でも、それに敵対するような存在でもないんだから」
「だったら私は―――」

「そう―――君は、水乃星透子の残滓に当てられてしまっただけの彼女の実験体の一人に過ぎない」

 幻が現実になるかのように、すぅっと音もなく伸びた影のように鼎の前に恋路が姿を現した。
 どういうわけか恋路は、漆黒のマントで体を覆い、頭には筒のような帽子を被っている。
 顔色はまるで生気がないように白く、そして口元は黒いルージュのように見える血が引かれていた。
 ここは製糸工場跡地である為、布や糸はいくらでも取り残されているのでそういった服装を急遽用意することは出来るだろうが、何故この状況で恋路がこんな格好をしているのか鼎にはさっぱり理解出来なかった。
 この界隈の女子高生ならば、もしかして恋路の格好に噂で広まる死神を連想したかもしれないが、生憎鼎はそんな噂や都市伝説に通じてはいなかった。
「なによ、巫山戯ているの? いや……それよりあなた……」
 恋路の格好にばかり目がいっていた鼎だったが、彼の胸のあたりに視線を向けるとはっとある事に気付いた。
 恋路の胸には、鼎の手によって差し挟まれた後悔の栞があるはずだった。
 それによって恋路は他人から視線を向けられると恐怖に駆られてしまうという弱点を強制的に作られたのだが、今の恋路の胸には仕掛けたはずの後悔の栞がなくなっている。
「そんなはずは……っ」
「一度挟み込んだ後悔の栞は君の手によってしか取り除けない―――なんていうのも君の勘違いだ。それに元より僕にはそういった精神を浸食するような攻撃は通じない」
「でもっ、今まで私の能力を使った相手にはそんなこと起こらなかったわ……!」
「そうかい、でも僕には、そして雨理恋路にはそれが起こった。その理由と意味を君は考えてみるといい。君が考えている間に」
 恋路は笑っているような、それとも怒っているいるような左右非対称の表情を浮かべて、それでいて視線だけはとてつもなく冷たく、鼎のことを見据えた。
 そしてさっと両腕を上げた瞬間。
「―――僕は目の前の世界の敵を討ち果たすことにしよう」
 囁くように言うと同事に、鼎が大切に抱え込んでいた銀の筒がすぱんと真ん中から両断された。
 きらりと宙空に光るなにかが見え、それが糸による攻撃だと鼎が気付くよりも早くことは終わっていた。
 両断された筒の中から真っ赤な液体がびしゃりと溢れて、さらに液体に包まれていたロックボトムの苗が筒から放り出されて落下していく。
 その途中で、幾重もの糸による断絶がロックボトムを的確に狙い、ロックボトムの苗が地面に落下するよりも先に細切れになって切り刻まれ最後には形すら無くして粉々になって消えていった。
 その間、鼎はあまりの早業にぴくりとも動くことが出来なかった。
 もし鼎が少しでも恋路の攻撃に対応しようと動いていたら、ロックボトムと一緒になって鼎の体もずたずたに切り裂かれていただろう。
 容赦のなさ、という点にかけて恋路の攻撃は徹底していたからだ。
「本来は海水のみが弱点だが、苗として未発達な状態でならこういう打倒の仕方も可能だ―――と、お喋りが過ぎるかな。どうも普段の僕と違って何割か混じっているから仕方がないのだけれど」
 肩をすくめるような動作をした後、恋路に身に纏っていたマントに手をかけた。
 そしてばさっとマントを体から剥ぎ取ると、
「これで世界の敵は排除できた。では、これにて泡のように消えるとしよう」
 そう言った後、恋路は決して笑わなかったその表情を崩して、ふっと笑みを漏らした。
「……最後までよくわからない覚悟だったが、けれど助かったぞ。そして折枝鼎の相手は俺がしよう」
 道化じみた衣装を脱ぎ捨てた恋路は言い放つ。
「―――さぁ、決着を付ける覚悟があんたにはあるかな」
 恋路にはその覚悟があった。
 これまで多くの他者の覚悟の欠片を使って、どうにか鼎の元まで辿り付いた恋路だったが、今このとき―――恋路は自らの覚悟をもって鼎に相対していた。
 そして切札を失い戸惑い呆然としている鼎に向って一言告げた。
「それともこう言おうかな。あんたは自分の後悔を覗く覚悟があるのかい?」
 黒マントの怪人のような口調だったが、しかしその言葉は借り物ではなく恋路のものだった。
「私の―――後悔?」
「そうだ、あんたは他人の後悔を観察するばかりで、自分の心に挟み込まれている後悔からは目を逸らしているんだ。最初に会った時から気付いてた。あんたは自分自身をちっとも見てやしないってな」
 そう言って恋路は鼎の胸の辺りを睨み付けた。
 その視線に誘導されるように鼎は自分の胸もとに―――心に、目を向けてしまう。
 そこにあったのは彼女が幼き頃から積み重ねてきた後悔の栞の数々だった。
 子どもの頃に母親に嘘を吐いてしまった後悔―――。
 大好きだった親友を厳しい言葉で傷つけてしまった後悔―――。
 憧れていた先輩に想いを伝えられなかった後悔―――。
 そこにあるのは誰しもが抱く可能性のある、どこにでもある後悔だ。
 今まで多くの人の胸に似たような後悔の栞を見てきた鼎だったが、けれどそれが自分自身の後悔となれば話は別だった。
 鼎はわなわなと震えて、自分の後悔から目が離せなくなってしまったのだ。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ―――。こんなもの見たくない!」
 途方もない羞恥心と悔恨の感情に飲み込まれるような感覚に、思わず息が詰まりそうになった。
 まるで後悔という海で溺れ苦しみ、そして息も出来ずにもがきながら沈んでいくような感情が渦巻いて鼎は頭を抱えてその場にしゃがみ込んでしまう。
 自らの後悔に異様なまでの嫌悪感を抱いてしまう。
 それが折枝鼎という人間の本性だった。
 その本性に鼎自身がこの瞬間まで気付いてはいなかったのだが。
「あ……あぁぁぁぁ……なんで私、自分の後悔をこんなに放っておいたんだろう」
 鼎は着ている服の胸もとをぐしゃりと鷲掴みにしたけれど、いつもやるように心から後悔の栞を抜き出すことは出来なかった。
 他人の心から後悔の栞は抜き出せても、自分の後悔は決して触れることは出来ない。
 そのことに気付いた時、鼎はがっくりと脱力し思い知った。
「私はなんて恥知らずだったのかしら―――自分の後悔もどうにも出来ない人間が、他人を救おうだなんて思い上がりもいいところだわ」
「いや、恥知らずでもいい」
 きっぱりと恋路は言い切った。
 そしてその場にへたり込んでいる鼎に向って、手を伸ばして彼女の華奢な両肩を掴んだ。
「あんたは自分の後悔を恥だと思ってるからこそ、自分のような想いをしなくていいように他人の心から後悔を抜き取ってやったんじゃないのか?」
「でも私は……きっとやり方を間違えていて……」
「確かにあんたは間違えてた。最初は人を救う為だったのに、いつの間にか自分の為に力を使うようになってしまったんだからな。だからその間違いも後悔としてすでにあんたの胸に挟まれてるんだろ?」
「う……ぅぅ」
 鼎は自分の後悔を目にした時に気付いていた。
 自分の能力で他者を支配しようとしてしまったという後悔の栞こそが、鼎の目に一番最初に写ったということに。
 潜在的に鼎は自分の行いを後悔していたのだ。
「けどな、そんなあんたのことをずっと心配してた奴がいるんだ。多摩湖はあんたが暴走していることをずっと心配して止めようとしてた。そして俺は多摩湖の協力者としてここに居る。多摩湖に代わって―――」
 鼎の心が折れないように、そして暴走しないように、恋路は鼎の両肩をしっかりと掴んだまま彼女の顔を覗き込んだ。
 そしてまっすぐに言う。
「あんたを助ける為にここにいるんだ」
 それが恋路が目指す決着だった。
 けれど鼎はそんな恋路の言葉を受止められない。
 何故ならこれまでの行いに対する激しい罪悪感が後悔として彼女の心を捕らえて離さないからだ。
「いや……でも私は」
「助けなんていらないとか、救われたくないとか文句があるなら多摩湖に言え。俺は多摩湖に頼まれてるだけだからな。勝手に助けるだけだ」
「その……あなたが言う彼女は今どこにいるの?」
「たぶん俺を追ってここに来ようとしているだろうけど―――」
 話している途中だったが、はっと恋路は視線を上げて、次の瞬間には乱暴に掴んでいた鼎の体を突き放していた。
「え……?」
 鼎はなにが起こったのか理解出来なかったが、突き放される最中に恋路が口にした言葉だけは聞こえていた。
「逃げろ」
 と恋路は言った。
 誰から逃げるのか、その答えはすぐ傍に迫っていた。
 ばばばばばば―――っ、と細い通路にマシンガンの弾丸が発射される音が響いて、鼎を突き飛ばした恋路の体が不自然に踊るように揺れた。
 恋路の体に何発もの弾丸が浴びせられたのだ。
「ぐっ……うぅぅ」
 弾丸が貫通した箇所からものすごい量の血が溢れ出し、恋路は痛みというよりは魂が抜けていくかのような喪失感を味わっていた。
 きっと痛覚を機能させるだけの余裕が恋路の体にはすでになく、多量の出血による生命の危機だけを感じているのだろう。
 恋路を撃った相手―――傭兵長が通路の向こうからマシンガンを構えたまま近づいてくる。
 この男が鼎の背後に忍びよりマシンガンの引き金を引こうとしていることに気付いた恋路は、とっさに鼎の体を突き飛ばして彼女を守ったのだった。
 そのことを傭兵長は理解が出来ない様子だ。
「お前もこの女に命を狙われてたはずだろ。どうして助けるような真似をした。それとも俺と一緒でこの女に操られたのか?」
 わざわざ異国の言葉である日本語で恋路に語りかけてくる。
 すでにこの男の胸には鼎に差し込まれた後悔の栞はなくなっている。
 鼎の精神が激しく動揺したことによって、彼女の能力の影響が薄れているようだ。
「操られてなんか……いない。俺は俺の覚悟で彼女を守る」
 いつ意識を失ってもおかしくはない状態なのに、恋路は倒れることもせずに顔を上げた。
 恋路の足下には血溜まりが広がり続けている。
「事情は知らないが、お前が彼女を殺そうとしているなら全力で阻止するまでだ」
「俺と俺の部下達は決死の覚悟でこの場所まで辿り付いたんだ。あともう少しでアレが手に入る。お前なんかに阻まれたりはしない!」
 哀れなことに傭兵長はまだロックボトムがこの世に存在していると思っていた。
 そして鼎を殺せば自分達の手に入ると考えているようだが、彼が望む破壊兵器はすでにこの場からもこの世界からも消え去っている。
 そんな事実を今の彼に伝えた所で、激昂し恋路と鼎に襲いかかるだろうことは安易に想像出来た。
 つまり事実を伝えようと伝えまいと、今の状況が好転することはあり得ない。
 この状況で恋路が鼎を守って生き残る為には、熟練の傭兵と真っ向から一対一の勝負をしかけるしかないということだ。
「やれやれ……守るべき女性を背中に決死の戦いなんて、見せ場としちゃあ格好良すぎるな」
 この時、恋路の脳裏には彼女の姿が過ぎっていた。
 あのホテルの一室で一度だけ姿を目にした―――そして本気で恋をしたあの可憐にして苛烈な印象を与える少女の姿。
 彼女の命令が発端となり恋路はこんな状況にまで追い込まれているのだが、しかし恋路の行動が彼女の興味を少しでも引けたのなら恋路にはまったく後悔なんてなかった。
「後悔どころか誇らしい―――俺は彼女の指令通りに、予備校に起きている異変の当事者を探しだし、そして守ることが出来てるんだからな」
「……なんの話をしてるんだ?」
 ぼたぼたと血を流し、それでも倒れずにいる恋路の口から出る言葉を、傭兵長はまったく理解出来てはいない。
 ただ恋路を目の前にしていると彼が瀕死だというのにどこか気圧されるような底知れないプレッシャーを感じてしまっていた。
 だからこそ、早くトドメを刺そうと思ったのだが、傭兵長は恋路の鋭い眼光に睨まれてごくりと息を飲むことしか出来ない。
「決死の覚悟でここに居るとお前は言ったな。だったら俺は、多摩湖から託された黄金のように輝ける覚悟に導かれここまでやってきた。お前なんかの覚悟に負けるわけにはいかない―――!」
「くっ……」
 長く傭兵を続けてきたが故の本能的な危機感から、恋路がなにかする前に傭兵長はマシンガンの引き金を引こうとした。
 しかし、それより先に恋路はがりっと口の中でかみ砕いていた。
「―――多摩湖の黄金の覚悟は、次なる覚悟へと俺を導いてくれた。そう、折枝鼎の限りなく透明に近い純粋なる覚悟にな!」
 恋路の背後には彼を支えるように鼎が両手を添えている。
 そんな鼎の体からは恋路にしか見えないのだが、ぽろぽろと覚悟の欠片が溢れ出していた。
 それはものすごい勢いでコップに水が注がれているかのような、圧倒的な覚悟の量だ。
 そして恋路は今、そんな鼎の覚悟の欠片の一粒を―――飲み込んだ。
「うるさいっ、とっととくたばれ!」
 殺気を漲らせた傭兵長だったが、しかし『くたばれ』という言葉を実行に移すことは出来なかった。
 彼の体がぴくりとも動かなくなってしまっていたのだ。
「……!」
 催眠術にでも掛けられたのか、それとも神経を攻撃されたのか。
 どんな理由があるにせよ、今攻撃されれば傭兵長はそれを避ける術がなく、状況は一瞬にして一転してしまう。
 けれど、恋路は傭兵の傭兵長に襲いかかろうとはしない。
 どころかゆっくりとした動作で自分の手元に視線を落している。
「これが私の、本来の力なのね―――」
 恋路の口調が変わり、彼に寄り添うようにその様子を見ていた鼎はぎょっとした。
 まるで自分の喋り方と瓜二つだったからだ。
 鼎の覚悟を取り込んだ恋路の手元にはいつの間にか一冊の本が握られていた。
「まさかこの能力、アドゥレセンスリグレットがまだ未完成の力だったとは気付かなかったわ」
 そう言う恋路は手にしている本をぱらぱらっとめくると、あるページでぴたりと手を止め、そこにすっと栞を挟み込みぱたりと本を閉じた。
 それだけだった。
 たったそれだけのことで、すでに攻撃は完了していた。
「うっ……ぶぶぶっ……」
 傭兵の傭兵長が本来出し得ないような歪な声を上げて、苦しそうに首元を押さえてもがき始めた。
 その様子を見ていた鼎は驚きのあまり思わず口走った。
「なにをしたの? 私にはこんなこと出来ないのに。なんで……?」
「ゴールデントリクルの能力は覚悟の欠片を取り込むことでその覚悟の持主の本来の力を八割程度借り受けるというもの―――そして私の、いえ折枝鼎の本来の力はあなたが思っているよりも凄まじいものだったのよ」
 鼎に似た口調で恋路は説明する。
 冷ややかで静かで、そして容赦のない話し方だ。
「あなたが無意識に抑制している力の本来の使い方はね。後悔の念を取り出すだけじゃない―――相対する者が体験した記憶を一冊の本として取り出し、その本に栞を挟み込むことで相手が過去に体験した感情と経験を再体験させる。これがどういう意味かわかるかしら?」
 言っている意味はもちろん鼎にも理解出来たが、自分にそんな力が眠っていて今は抑制状態であるということが信じられなかった。
 しかし傭兵長には確実にアドゥレセンスリグレットの本来の力が効果を発揮している。
「ぐぁっ……」
 ついに傭兵長は顔面を真っ青にしてその場に倒れ込み、意識を失ってしまった。
 彼が再体験させられた過去の経験と感情、それは―――。
「幼い頃に川で溺れて九死に一生を得た時の苦しみの経験。それを再び味わったというだけ。死ぬ程ではないけれど、この場に置いては再起不能の苦しみだったようね」
 幼き日の瀕死体験、そこに栞を挟み込み再体験させていたのだ。
 まさに人智を超えた奇跡の使い手、MPLSの驚異の能力だった。
「けれど私には―――いや、俺には持て余す力だがな」
 ぺっ、と覚悟の欠片を吐き出して恋路はついにその場にがくりと膝を突いた。
 無理もない、瀕死の重傷を負ってなお膨大な精神力をすり減らす能力を使ったのだ。
 全気力を振り絞りすぎてすでに残りカスしか残っていない状態だった。
 自分の能力の行き着く果てに驚愕し立ち尽くしていた鼎も、倒れ込みそうになっている恋路の姿にはっと我に返った。
 そして恋路を走り寄ろうとしたその最中。
 かつん―――と細い通路に響くヒールの音がした。
 同事によく通る声が恋路の耳にも響いた。
「駄目よ、こんなところで死んじゃあ。もったいないわ」
 意識が途絶えそうになっていたのに、恋路の耳にはその声がよく通った。
 何故なら一度しか聞いていないのに忘れられない、あの恋する少女の声だったからだ。
「あぁ、死なないさ。まだあんたと直接話せてもいないんだからな」
 そう言いたかった恋路だったが、もう意識は殆ど無く倒れ行く体を鼎に支えられている状態だった。
 そんな恋路の前にかつんかつんとヒールの音が近づいて来て足を止めると、はぁ、と溜息を吐いた。
 そして死闘を終えた恋路の、ずたぼろの体を見て彼女は頭を抱えている。
「まったく、筋金入りの嘘つきの私に惹かれるのがこんなバカ正直な奴なんてね。まったく笑い話もいいところだわ。でもまぁ―――あの黒帽子の死神ならこういうんでしょうね」
 すでに意識を失っている恋路を前にして少女はふっと微笑みかける。
「まぁいいじゃん―――って」
 つまるところ、そんな一言で終わる一件だった。
 覚悟も後悔も、純粋な恋心を前にしてはどうでもよくなるような。
 あるいは、全てが報われるような少年と少女の再会だった。


つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?