ブギーポップアンブレラ/雨上がりの恋路1

 雨理恋路(あめり・こいじ)という少年について、周囲の人間が持つ印象は一辺倒なものである。
「雨理? あぁ、あの変わりもんだろ? 何考えてるかわんねーやつ」
 だいたいがこんなところだ。
 他にやることが出来た―――という理由で通っていた高校をいきなり辞めてしまったり、かと思えば毎日のように繁華街をうろついているがなにか目的めいたものがありそうではない様子だったりと、彼がなにをしたいのか本人以外にはまるでわからなかった。
 ただ、いわゆる不良や非行といった反社会的な行動をしているわけでもなく、彼自身はどちらかといえば地味なタイプの少年だった。
 街中をふらふらしていても、薬の売人や不良少年たちがたむろしているような危険な場所には決して近づかないし、喧嘩や揉め事を起こしたという話も聞かない。
 家に帰らない日もあるにはあるが、両親と険悪な関係というわけでもなくふらりと家に帰ってきては一緒に食事をしながら家族の団らんとした時間を過ごすこともあった。
 そんな恋路について彼の両親は、若い内は自分がなにをしたいのか見失うこともある。しばらくは自由にさせて、その内に大学受験でも勧めて進学させよう。
 なんて悠長に考え、自分の息子が道を踏み外すことはないだろうと高をくくって、彼の気ままな行動を許していた。
 周囲にとってはちょっとした変わり者。
 けれど根っこの部分は地に足が付いている。
 そう思われている彼が、実のところ地に足どころか気持ちは宙に浮いて、とある一途な感情に自分の全てを捧げていると言っても過言ではないことは、彼以外には知る良しもなかった。
 彼が取り憑かれている―――いや、煩っているといった方が正しいその感情とは、つまるところ恋だった。
 雨理恋路は恋煩いをしていた。
 それも自分にはまるで似合わない高嶺の花に恋い焦がれている。
 恋路が出会ったのは、黄金よりも輝かしく美しい『覚悟』を持った女性だった―――。

 恋路がその女性に出会ったのは偶然の出来事だった。
 高校二年生に進級したばかりの恋路はとある高級ホテルのレストランでアルバイトを始めた。
 仕事内容は料理の配膳、いわゆるホール係。アルバイトを初めて一ヶ月もした頃、恋路は手慣れてきたホールの仕事とは違うイレギュラーな業務を頼まれた。
 それはホテルの最上階にあるスイートルームへと、注文された料理を運ぶというものだった。
 本来ならそういった業務はレストランのホール係ではなく、ホテルの別部署の役目なのだがその日はたまたま人手が足りなかった為に恋路にその役目が回ってきたのだ。
 恋路は言われた通り、注文された料理を一式ワゴンに載せて最上階のスイートルームへと向かった。
(スイートに泊まって部屋まで料理運ばせて。なんか絵に書いたような金持ちって感じだよな)
 そんなことを思いながら、スイートルームに泊まっている客をひと目見てやろうと彼が部屋のベルを鳴らすと、中から若い女の声で、
「入っていいわよ」
 と返事があった。
 恋路は失礼しますと一言添えて部屋の扉を開けた。
 するとそこに居たのは一組の男女だった。
 一人は体にフィットした紫色の服を着た少年で、もう一人はおかっぱ頭をしたジャケットにパンツルックの少女だった。
 二人とも恋路と同い年くらいのはずなのに、ひと目見て住んでいる世界が違うと思わせる独特の雰囲気を纏っていた。
(逢引きって空気でもねーな。この部屋って確か年中貸し切られてるって話聞いてたけど、こんな奴らが? そんな金持ってるようには……見えるような気もするよなぁ)
 じろじろと観察したりはしなかったが恋路はこの奇妙な取り合わせの二人のことが妙に気にかかった。
 けれど恋路の仕事はただの料理の配膳だ。
 手早く済ませて部屋を出るに越したことはない。
「ご注文の品です」
 そう言ってワゴンに載せていたドーム型のシルバーの蓋を外すと、中に入っていたのはホイップクリームやチョコソースなんかで綺麗にデコレーションされたクレープだった。
「……?」
 自分の運んできた料理をしっかり確認していなかった恋路は顔に出さないまでも奇妙だと思っていた。
 わざわざクレープ一品だけを届けさせるか? という疑問が頭の中に湧いている。
 すると皿の上のクレープを見た少年が、ほぉと感心したように声を出した。
「こんなとこでもクレープが頼めるのか。気が利くな」
「まぁね」
 少女の方が投げやりとも言える口調で応えた。
「赤ん坊のおしゃぶりと一緒よ。あんたにはクレープ与えておけば、とりあえずは機嫌が悪くなることはないでしょ?」
「お前が俺の機嫌を取ろうなんて殊勝なタマだとは思えないがな」
 ふんっと鼻で笑ってから少年はクレープに目をやっている。
 恋路は二人の関係がどういったものなのか、まるでわからなかったがとりあえずはクレープの載った皿とフォークやナイフといったカトラリーを一式テーブルへと並べて、部屋を後にしよとした。
 けれどその途中、恋路の目にあるものがとまった。
 それは部屋に敷いてある高級絨毯の上に転がっていた水晶のようにきらきらと輝く宝石だった。大きさは飴玉ほどだが、そんな小さな塊に詰まっている輝きは眩いほどだ。
 恋路は撤収の動作の中で、足を屈めてその宝石を拾い上げすぐさまポケットへとしまった。
「なにか落ちてたかしら?」
 少年と話をしていたはずの少女が目ざとく恋路の行動に反応した。
 恋路はすぐさまぺこりと頭を下げて愛想笑いを浮かべる。
「ホコリがありましたので。掃除が行き届いておらずすみませんでした」
 そう言って誤魔化して、恋路は急いで部屋を後にした。
 しかし誤魔化せた―――と思っているのは恋路だけで、せかせかと部屋を後にした恋路の後ろ姿を少女はまるで射るような視線で追っていた。
 けれど恋路がそんな視線に気付くことはない。
 なにせ今の恋路は素晴らしいお宝を幸運にも拾い上げたことに歓喜していたからだ。
「なんて綺麗なんだ……!」
 恋路は部屋を出た途端に、感動で体が震え思わず口からそんな言葉が漏れていた。
 彼は先程拾い上げたきらきらと輝く水晶のような宝石をポケットから取り出してまじまじと見つめた。
 見れば見るほどに美しい。透き通った色のない宝石のような、しかし光の加減で七色に輝いて見えたりもする。
 赤く見える時が特に美しく、形は雫のようなのでまるで滴り落ちる血のようにも見えた。
 その宝石を見ていると恋路は心の奥底に熱が宿るような感覚に襲われた。
(これはあの少女の―――あの人の覚悟だ。こんなにも美しい覚悟に出会ったことなんてないっ!)
 ぐっと宝石を握りしめて、恋路は熱くそして高鳴っていく胸の鼓動を感じ、そして自分の中に湧き上がる感情をすぐさま理解した。
 これは恋だ。
 自分はあの少女に恋をしたのだ、彼女の覚悟をひと目見た瞬間から―――。
 これが雨理恋路が恋煩いに陥った決定的瞬間だった。
 この時より彼は名前も知らない少女の零した覚悟を宝物として、彼女の為に生きようとすら思うようになったのだ。
 
 ゴールデントリクル―――と、恋路は生まれ持った自分の能力をそう呼んでいた。
 黄金の雫という意味のその能力は人の心からこぼれ落ちた『覚悟』を拾い上げることが出来るというものだ。
 人は確固たる使命や信念を遂行しようとする時、胸の内は覚悟に満たされ、収まりきらない覚悟が心という器から溢れ出す。
 恋路はそんな心からこぼれ落ちた覚悟という概念を形として捉えることが出来るのだ。
 気高き覚悟はまるで黄金のように輝いて溢れ出す。
 だから恋路は自分の能力をゴールデントリクルと名付けたのだ。
 心から溢れた黄金の覚悟を拾い上げ、愛でる。
 恋路は物心付いた頃から当たり前に自分の能力を理解していた。それが自分以外の人間には出来ないことだと知るのに時間を要したりもした。
 そして自分の能力が人にはない特殊なものだと気付いた後も、恋路は別段自分は特別な存在だとか選ばれた人間だなんて思ったりはしなかった。
 ただ人と違ったことが出来るだけで、能力を使ってうまく生きようなんてことも思わない。
 他人の覚悟を拾い上げて愛でる楽しみをひっそりと趣味にしているだけで恋路は満足なのだ。
 拾い上げた覚悟を使用する方法を編み出した時もまた、彼は能力を私利私欲の為に利用するなんてことまるで考えなかった。
 自分の才能を生かそうとは思わない。生まれ持った能力をほんの些細なアクセサリー程度にしか捉えない。恋路とはもとよりそういう人間なのだ。
 しかし名前も知らないあの少女に出会ってから、恋路の考えはがらりと変わった。いや、考えだけでなく変わったのは行き方全てといってもいい。
「俺はあの人の為に自分の能力を使うんだ。きっとその為にゴールデントリクルを授かったのだから!」
 心の底から本気でそう思っていた。
 それほどまでに少女からこぼれ落ちた覚悟の輝きは美しく、恋路は一日の内に何度も彼女の覚悟の宝石を見つめてしまう。そんな時間が増えていた。
 彼女のことで頭がいっぱいになってなにをするにも手につかず、彼女のことを知りたいという欲求が止まらなくなり、挙句高校を辞めてしまった。
 学校に通う時間があるなら、彼女の為に行動したい。
 恋路は本気だった。
 恋愛感情というものだけが彼を突き動かすようになった。
 これまで可愛いクラスメイトに恋心を抱いたり、テレビの中のアイドルに見惚れてしまうこともあった恋路だったけれど、彼女との出会いに比べると今まで芽生えてきた恋心なんてひどくうすっぺらに思えた。
 恋とは全身全霊を賭けてするものなのだと、恋路は気付いたのだ。
 高校も辞め、アルバイトも手につかずにクビになり、けれども恋路は少女のことを思うだけで毎日が充実していった。
「九連内千鶴(くれないちづる)か……」
 クビになったというのになんとかホテルに忍び込んで、最上階のスイートルームを貸し切っている者の名義を調べた恋路だったが、そこに登録されていた情報によるとあのスイートルームは九連内千鶴という四十代の女性が借りていることになっていた。
 年齢からして彼女でもなければ一緒に居た紫の服の少年でもなさそうだ。
 ホテルの前で張り込みをしていれば彼女にもう一度会えるかもしれないと考えた恋路だったが、一週間もの間家にも帰らずずっとホテルの正面玄関が見える位置で彼女のことを待ち構えていたが彼女がホテルに現れることはついぞなかった。
 これでは彼女と二度と会えない。
 そう思うだけで恋路の胸はぎちぎちとものすごい強さで絞られるかのように苦しくなった。
「だったら本格的に探すしかないな……」
 それも恋路にしか出来ない方法で。
 彼はポケットに忍ばせていたピルケースを取り出した。
 本来は薬なんかを種類ごとに分けて入れておくことが出来るケースなのだが、中には薬ではなく色とりどりの宝石が納められていた。
 それはこれまで恋路が拾い集めてきた覚悟の結晶だ。
 黄金かはたまた宝石のように見える覚悟の結晶は、しかし彼以外の人間には目で見ることも叶わない。もちろん触ることなんて不可能だ。
 けれど恋路ならば覚悟の結晶をピルケースにコレクションしておくことが出来るのだった。
 恋路はピルケースの中の覚悟の結晶に目を落とすと、その中から黄金の輝きを宿した一粒の覚悟を摘み上げた。
 金平糖ほどの大きさの黄金の結晶―――これを落としたのは名の通った泥棒だ。
 恋路の家の近くにある宝石店に泥棒が入り、宝石を根こそぎかっさらって行ったという事件のュースを新聞で読み、事件直後の宝石店の周辺をくまなく探して手に入れたものだった。
 その泥棒は未だに捕まっておらず、泥棒から溢れ出した覚悟は言うなれば熟練の泥棒の『絶対に盗んでやる!』という悪しきプロフェッショナル魂の結晶である。
 それを指先でつまみ上げた恋路は平然と覚悟の結晶を口へと運ぶと、ぽいっと放り込んでゴクリと飲み込んでしまった。
「いくか」
 覚悟の結晶を飲み込んだ途端、恋路の目の色が変わっていた。
 まるで猛獣から獲物をかすめ取るコヨーテのように鋭く狡猾な輝きが恋路の瞳には宿っている。
 恋路はズボンのポケットに両手を突っ込むとクビになったばかりだというのに、勤め先だったホテルへと悠々と歩き始めた。
 恋路が正面玄関から入ったのは、本来なら十七才やそこらの少年が入るには敷居が高すぎる高級ホテルであり、そういったホテルは客層に常に目を光らせている。
 アルバイトだった頃は裏の出入り口から入らなければならない規則があったくらいだ。
 ふかふかの絨毯が一面に敷かれたロビーを通り、恋路はフロントへと近づいた。
 すでにフロントに待機していた受付係の五十代のホテルマンは眉をしかめて近づいてくる恋路を睨んでいる。
 この壮年のフロントマンは素行不良で恋路がクビになったことを聞いていた。
 そんな奴が堂々と表玄関から入ってきたことに、露骨に嫌悪感を抱いている様子だ。
「よぉ、そんな怖い顔するなよ」
 殆ど会話をしたことがないというのに恋路はフロントマンに軽々しい態度で話掛けた。
「なにしにきた? お前、クビになったはずだろ」
「おいおい、正面玄関から入ってきたんだぜ? 俺が客だったらとんだ態度だな」
 フロントのカウンターに腕を付いて、恋路はフロントマンに顔を近づけた。
 男は汚い物を見るような目で恋路に視線を送っている。
「なんだ、腹いせに客としてレストランでも利用するつもりか? ここのバイト料じゃ前菜程度も注文出来ないのは知ってるだろう?」
「そんな恨みがましいことしねぇよ。ただバックヤードのロッカーに私物を忘れちまってな。オーナーが取りに来いってうるさいから来たんだよ。―――で、だ……アルバイトだのの関係者用の入り口のパスカード、もう返しちまってることに気付いてな」
 ひらりひらりとフロントマンに向けて恋路は手を振っている。
 バックヤードに入るパスカードを渡せ、という態度だ。
 フロントマンはなにか言い返してやろうかと思ったが、この軽薄な男を一秒でも長く客が通るフロントに居させたくはないと思い、渋い顔をして胸ポケットからパスカードを取り出した。
「さっさと私物を取って帰れよ。10分あれば充分だろ、あんまり長居してるとつまみ出すからな」
 渋々といった態度でフロントマンはパスカードを恋路へと渡した。
「へへっ、ありがとな」
 恋路は最後まで、普段の彼とは思えない態度でカードを受け取りひらひらと手を振ってバックヤードに通じる扉にパスカードを翳して奥へと消えていった。
 けれど実はパスカードだけではなく、ひらひらと無駄に振っていた手の中には客室を自由に開けられるマスターキーのカードを奪っていたのだ。
 恋路は最初からフロントマンが、客室のキーカードを管理する責任者であることを見抜いていて、あえて声を掛けていた。
 うざったい態度で相手の気を削ぎ、ひらひらとした手の動きに意識を集中させ胸ポケットに持っていたマスターキーを抜き取っていたのだった。
 チーン、と音を立ててエレベーターは最上階に到着した。
 もちろん恋路の目的はバックヤードのロッカーに置き忘れた荷物などではない。
 例の少女の手がかりを探すべく、今一度最上階のスイートルームへと足を運んだのだ。
「よっと……」
 手慣れた様子で恋路は扉へとマスターキーを通した。
 しかしスイートルームはマスターキーだけではなく、暗証ナンバーの入力も必要となる。
 恋路はタッチパネル式の画面へと指を伸ばし、よどみなく六桁のナンバーを入力した。
 するとあっさりと扉のロックは解除された。
「へへっ」
 思わず笑みが漏れた。
 タッチパネルに残ったわずかな指紋を恋路は読み取り、六桁の暗証ナンバーを解いたのだ。
 熟練の―――しかし呼吸するかのような技能。
 恋路は鼻歌交じりであっさりとスイートルームへの侵入に成功した。
 そしてロックを解除した扉から部屋の中に入ったところで、ころんっと恋路の体からきらきらと光るものがこぼれ落ちた。
 落ちたのはホテルに入る前に恋路が自分の口へと放り込み体内へと取り込んでいた、泥棒の覚悟の結晶だった。
 結晶は落ちた途端、柔らかな絨毯の上にバウンドし、その直後、きらきらとした粒子となって砕けてしまった。
「覚悟の寿命だったか……」
 砕けた覚悟の粒子を眺めている恋路の口調が変わった―――いや、元に戻ったのだ。
 覚悟の結晶を口に入れた恋路はその覚悟の持主だった泥棒になりきっている、そんな風に見える。
 これこそが、ゴールデントリクルの能力の利用法だ。
 他人が零した覚悟の結晶を採集出来るだけに留まらず、それを体内に摂取することで一時的にその覚悟を抱いた者の能力や才能を借りることが出来る。
 ただし、所詮は人の心に宿る覚悟がわずかに零れたものだ。
 引き出せる才能や能力は十全とはいかない。
 せいぜいが七割程度の実力しか宿らない。
 しかしそれだけあれば、例えば今このときのように熟練の泥棒の覚悟の力を七割ほど借り受けてスイートルームに侵入することくらいは可能としてくれる。
 そして一定の時が経てば覚悟は恋路の体から零れてしまう。なにせ他人の覚悟の結晶なのだ、恋路に馴染むはずがない。
 体内に摂取してはこぼれ落ちる、それを繰り返していると覚悟の結晶はすり減りやがては今のように細かい粒子となって消えてしまう。
 恋路はこれまでこのスイートルームを借りている人物を探る為にも同じ泥棒の覚悟を借りていたので、ずいぶんと覚悟の結晶がすり減っていたのは自覚があった。
 使えば次こそなくなってしまうとわかっていても例の少女を知る為には惜しくはなかった。
「消えて無くなる覚悟だからこそ、その輝きは高潔だ―――たとえ、それが悪の覚悟でも」
 独り言にしては芝居じみていたが、彼の地の性格とはこういったものだ。
 なんだか芝居がかっていて大仰だと彼を知る者は一様にそう思う。そんな彼の性格を、中には天然と呼ぶ者もいるくらいだ。
「これからは自力で調べなくちゃあいけないんだが」
 恋路は侵入したスイートルームをざっと眺めた。
 予想はしていたがあの少女の私物が残っているということはなく、部屋の中はこのまま他の客に貸しても問題ない程に綺麗に掃除されている。
 この部屋に滞在出来るのは精々が十分ほど。
 それ以上長居をすればホテルの関係者に見付かる可能性がある。
 恋路は自分の痕跡を残さないよう注意して部屋の中をくまなく調べて見たが、けれど彼女に繋がる手がかりが見付かることはなかった。
 まさに髪の毛一本すら残っていないという状態だ。
「……」
 これでは砕け散った覚悟の結晶の無駄遣いだった―――そう思って恋路は溜息をついて寝室の隅に立ち尽くしていた、その時だった。
 とぅるるるるるる―――。
 ホテル備え付けの電話がやけに間の抜けた着信音を鳴らしたのだ。
 恋路はびくっと肩を振るわせてベッド傍のサイドテーブルの上に置かれた電話機へと近づいた。
 とぅるるるるる―――。
 鳴り止まない着信音。
 ディスプレイを見ればそこには非通知の文字が表示されていた。
 つまりフロントからの連絡ではない。
 ホテルの部屋に備え付けられた電話機は、本来フロントを経由しなければ電話など掛けられないはずだ。
 つまり電話を掛けてきている相手は電話機のナンバーを知っているということになる。
 例えば部屋を借りている張本人だとか。
「出てみる価値はあるか……」
 電話の相手があの少女だとは、いささか楽観的過ぎるとは思ったが、恋路は思い切って電話を取ってみた。まるで見当違いの相手なら清掃に訪れていたホテル従業員を装えばいいと考えたのだ。
 恋路はどきどきとしながら受話器を手に取り耳へと当てた。
 すると唐突に、
「合格だ」
 突き付けるようにそう宣言された。
 声はあの少女のものではなく、少年なのか少女なのかはっきりしない中性的な声色をしていた。
「なんだと?」
 突き付けるような物言いに恋路は眉をひそめている。
 すると電話の向こうの中性的な声の持主は淡々と言葉を続けた。
「ホテル側には誰であろうとその部屋には入れるなときつく忠告しておいた。もちろん、それ相応の対処はしていただろう。にもかかわらず部屋に侵入しこの電話を取っているということは、第一関門は突破したというわけだ。その意味での、『合格』だ」
「おい、一方的になんの話をしている」
「僕はあの方と君とを繋ぐメッセンジャーをしている。わからないのなら今すぐ電話を切れ。そうすれば二度と君とあの方が関わることはない」
「待て。そう早まるな。あの方ってのはえぇと、つまり。俺が探しているあの人のことを言ってるんだよな?」
「君があの方を探っていることなどすでに把握済みだ。いちいち聞くことでもないだろう。それを踏まえて伝言を聞く気があるのかと聞いている」
「もちろんっ、聞く気はあるに決まっている!」
 がっつくように恋路は答えていた。
 電話先の相手はぶしつけにも程があるのだけれど、あの少女に関係があるとわかればその程度のこと恋路は気にもならない。
「さっき第一関門といったな。だったらいくつかの関門を突破すればまたあの人に会えるのか?」
「その通りだ。あの方に有益かどうか、君が示せばあの方も興味を抱くだろう」
「あの人に試されるわけか。悪くないな―――いや、嬉しいとすれ思えるっ」
「……」
 電話先の相手が始めて間を開けた。
 おそらく恋路があまりにも乗り気なので閉口したのだろう。
 唐突に自分を計ると言われれば気を悪くする場合が多いはずであり、電話先の人物はあえて恋路が怒りの感情を抱くように会話を持っていって彼の性格を分析しようと試みたのだったが、どうもうまくはいかないようだ。
 電話口から聞こえる恋路の声は怒るどころかうきうきとしている。
 まるで遠足の予定を聞かされた小学生のような反応だ。
「それで、次はなにをすればいい? どんな試練が俺を待ち構えているんだ?」
 そんなことを嬉々として尋ねてくる恋路に対して、電話先の相手はかつて共闘した少年のことを思い出していた。
 その少年は数々の理不尽な試練(ディシプリン)を与えられ、生死の狭間をたゆたいながらも乗り越えていったが、果たしてそんな少年と同じ目に遭っても恋路は嬉々としていられるだろうか。
「君の住む地域の駅前に予備校があるだろう?」
「予備校……あぁ、あるな。あの大手のところか?」
「その予備校に潜入してもらいたい。潜入といっても別にこそこそとしなくとも、君くらいの年齢なら正面から入っても自然だろう」
「もっと言えば入学金さえ払ってしまえば潜入どころか堂々と通えるな」
「そこは君に任せるよ。こちらとしてはその予備校に足を運びなにか違和感がないか調べてもらいさえすればいい」
「―――なにかあるのか、その予備校に?」
「あるかないか、それを判断したい。その為の君だ」
「わかった、やるよ。それがあの人に会う為の試練っていうならな」
 ひどく漠然とした指令だったが恋路はやる気だった。
 しかし問題もある。
 あの少女と繋がる電話先の相手との連絡の取りようがないということだ。
 まさか電話番号を教えてくれるような関係にはならないだろうから。
「君がこちらにコンタクトを取る必要はない」
 まるで恋路の内心を見透かしたように電話先の相手がそう言った。
「君からの報告を必要とした時は、こちらから連絡を入れる」
「どうやって?」
「どうとでもなる、君の動向を把握することくらいな。あぁ、それと―――あと三十秒でフロントマンがその部屋を訪れる。出るなら急いだ方がいい」
 そうやって一方的に会話を終えるとガチャリと通話が途切れた。
 その後、三十秒きっかりに部屋のベルをが鳴り、そして部屋の扉が開いた。
 入ってきたのは例のフロントマンで、部屋に変わったところがないかを確かめたのだが、別段気に掛ることはなかった。
 ただ、部屋のテーブルの上に何故だかマスターカードキーが置いてあるのを見つけてしきりに首を傾げるばかりだった。


つづく

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