「人の話を聞かない妻」のはなし

突然の自分語りをする場としてこの場所を使おうと思う。

これは私が十数年かけて経験してきたことであり、得てきたことでもある。
話は私の妻についてだ。
私の妻は彼女の母親からも「この子は人の話を聞かないのよ!」と事あるごとにお怒りの言葉を頂戴している程に「人の話を聞かない人」らしい。らしい、と書くのは私自身が本当に人の話を聞かない人なんているのだろうかと懐疑的に考えているからである。

そもそも「人の話を聞かない」とはどういうことだろうか。ごく当たり前に使われている言葉である。試しにインターネットで検索してみると、「人の話を聞かない人の対処法」や「人の話を聞かない人の特徴」なんて記事がまぁ出てくる。そのくらい世間にはそういう人が溢れているのだろう。そしてそのことで悩んでいる人も多いということだ。けれど、どんな人が人の話を聞かないのかと具体的に例を出すと、きっと千差万別、様々なケースがあると思う。
一例として、妻と彼女の母親のやりとりを記してみようと思う。

ある時、妻は私の母親(妻にとっては義母)から贈り物を貰った。その贈り物へのお礼に対して妻と彼女の母親とでこんなやりとりがあった。

母「あなた、贈り物貰ったんだったらお礼の電話か手紙送りなさいよ」
妻「えー、それだったら旦那ちゃんからお礼の電話した方がお義母さん喜ぶよ」
母「そうじゃなくて、こういうのはあんたがちゃんとお礼するものなの」
妻「絶対旦那ちゃんがした方が喜ぶんだって」

こんなやりとりから、彼女の母は頭を抱えて「これだからこの子は人の話を聞かないんだから」と苛立つことになるのだけれど、そのやりとりをそばで見ていた私は思った。
果たして、本当に妻は人の話を聞いていないのだろうか? 確かに彼女の母親が言いたいであろうことを彼女はスルーしている。言葉は耳に入っているが意に介していないように見える。
ただ、このやりとりには実は相互に「テーマ」が食い違っているという問題点があるのだ。
妻はこの会話の中でのテーマを「親孝行」としている。
それに対して妻の母親の会話のテーマは「礼儀」だ。
上記の母と子の会話をもう一度読み返しながら、これから書く解説を読んで欲しい。
自分の旦那が親に電話することは「旦那がするべき親孝行」だと考えそれをテーマに話をしている妻と、贈り物を貰ったことに対してお礼をしなさいと「礼儀」をテーマに話を進める母。会話は終始テーマがすれ違っているのに二人はそれに気づいていないので、結果的に母親の方が一方的に「この子は人の話を聞かない」と嘆くことになるのだ。
この場合、話を聞いていないのではない。話が食い違っているだけだ。
「親孝行については日頃気をつけてやっていくから、今回はお礼についての電話をしてあげて」と私が話すと妻はすんなりと理解してくれた。ちなみに言うと義母からの贈り物に妻がお礼をするべきだなんて考えは前時代的だという意見はこの場では求めていない。そういう議論は別の場でするとよい。

このようにちょっとした理解の食い違い、コミュニケーションの不理解から、「人の話を聞いていない」という状況が出来上がるのだと私は思う。
他にも例がある。

これは妻に料理を食べてもらった時のことである。
私は自分で作った料理を皿に盛り付け妻へと渡した。その際に醤油も一緒に差し出した。
「好きな分量醤油をかけて食べると美味しいよ」
その一言を添えて料理を提供したのだが、妻は料理を受け取ると醤油をかけることもせずに急に塩をかけ始めた。
その様子を見て、私は「いや、話聞いてた?」とつい声に出してしまった。けれど妻はなんとはないといった様子で、「聞いてたよ?」と返す。
「醤油をかけてね」という言葉がうっかり聞こえていなくて、塩をかけたというわけではない。聞こえていてあえての行動である。「人の話を聞いていない」という人間の典型のような行動に思えるが実は妻にはしっかりと思惑があった。

「醤油をかけて食べてね、と言われて手渡された料理だけれど、この料理はシンプルな味わいが合うと思う。塩をかけて食べた方がきっと美味しいに違いない。だから私は塩をかけて食べるわ」

よくよく話を聞いていみると、妻はそんなことを考えていたそうだ。
この場合、その思惑を一切口に出さずに行動した為に、私は面食らうことになる。ただ理由を聞けば納得出来る。彼女は味付けを自分で決めたかっただけなのだ。
このことから得られた教訓は、自分がどう考え、どう思っているか。
それはしっかりと言葉として口に出して、相手に伝えていくことが大切であるということである。
それは長年連れ添ってきた夫婦であってもそうなのだから、学校での友人、職場の同僚、たまたま知り合っただけの知人なんて関係ならなおさらだ。
言葉に出さなくたって、私の意思は相手に伝わっているだろう。
なんて考えはとても甘い。そんなわけないのである。そしてそこから「人の話を聞いていない人」というものが出来上がってくる可能性がある。

私は人間同士は相互不理解な生き物であると考えている。
根本的にディスコミュニケーションなのだから、相手を理解する努力を欠かしてはいけない。わかってもらえるのが当たり前なんてことは幻想で、沢山の言葉と沢山の気持ちを相手に一生懸命伝えることこそが人間関係なのだと思う。

最後の例をあげようと思う。

真っ白いりんごが描かれた塗り絵があるとする。
その塗り絵を相手に差し出し「りんごを赤く塗ってね」と伝える。
けれど塗り終わったりんごの絵を見ると緑色に塗ってあったとする。
その絵を見て「なんで人の話を聞かないんだ!」と思う以外の選択肢はないものか、考えてみて欲しい。

「りんごを緑に塗ったのはなんで?」
「青りんごはこういう色でしょう。私はりんごといえば青りんごが好きなの」
「確かにりんごには赤いりんごと青りんごがあるね。それに青りんごと言っても本当の色は緑色だね。だから緑に塗ったんだね。でも今回は赤く塗って欲しかったんだ」
そんな会話が出来たら、お互いの理解が少しは深まるかもしれない。
欲を言うなら何故りんごを赤く塗って欲しかったのか、その理由を塗り絵を渡す段階で伝えることが出来ればよかったのではないか。

赤く塗ってねと言って渡したりんごが緑色に塗られる。これが人間関係というものの縮図であると私は思う。相互不理解の積み重ねがコミュニケーションだとも思う。でも人は一人では生きていけない。相互不理解を積み重ねても、どうにかして相手を少しでも理解し、向き合っていかないといけない時もある。
人の話を聞かない妻、そう言われる人と長く付き合ってきた私が言えるのは、人の話を本当に聞いていない人なんてそうはいない。聞いていても理解出来ていなかったり、誤解していたりはたまた食い違っていたり、そんなことばかりである。
相手にこちらの考えを、丁寧に伝える。相手の気持ちも丁寧に汲み取る。
相互不理解な人間たちがなんとか理解しあうにはそうするしかないのだと私は思う。

ただ最後に付け加えるなら、こんな手間のかかること家族である妻だからこそやろうと思えるのであって赤の他人には決してやりたくないのである。元も子もない話であるが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?