ブギーポップアンブレラ/雨上がりの恋路6

 その男は深い後悔に取り憑かれていた。
 男の素性は誰も分からない、それは男がとある研究に携わった際にその研究が秘匿中の秘匿であった為、関わった者全員の個人情報がこの世から抹消された為である。
 故に男には国籍もなく、どこにも存在していた証拠もない、確かに実在しているはずなのに透明人間のような存在だった。
 男の関わっていた研究というのはとある化学兵器の製造だった。
 爆弾や毒ガスよりも効率よく、広大な領域を瞬く間に破壊出来る兵器を作りそれを欲している国や組織に売る。
 男の所属していた研究機関は利益の為にならどのような非人道的な兵器でも開発していたのだが、けれど―――それでも、男はその兵器の開発のわずかにでも関わってしまったことを今でも後悔している。
 なぜならば、失敗に継ぐ失敗の末に偶発的に作り上げられた兵器は、まさしく悪魔と呼ぶべき代物だったからだ。
 研究者の中にはその兵器をノートリアスI.C.E―――悪名高い失敗作と呼ぶ者も居た。
 なにが失敗作なのか、それは兵器が抱えた致命的な欠陥が理由である。
 兵器は一度使えば『地脈』という大地に流れる真偽不明な力を操り大地震を発生させることが出来た。
 確かに効果だけ聞けば大量破壊兵器として充分な性能が備わっているようにも思える。
 けれど問題だったのは、兵器は一度完璧に発動してしまうと誰にも止める手立てがないというところにあった。
 大地をずたずたに断裂させ、地の果てまで崩壊させ続ける。
 それが兵器の本質であり、兵器の使用はつまるところ世界の崩壊を意味する。
 だからこそ兵器は禁忌とされ永劫の封印かもしくはこの世からの抹消するしか道はないと研究機関の判断が下った。
 しかし封印も抹消も実行されることはなかった。
 その前に兵器は研究機関から持ち出され莫大な金額で売却されてしまったからだ。
 男は金に目が眩み兵器を機関から持ち出した者達の中の一人だった。
 それ以降、男は裏社会では国際的に指名手配犯扱いされており、兵器売却の際に手に入れた多額の報酬を使うといった目立った動きをすれば即座に発見されおぞましい制裁を受けるという立場に立たされることになった。
 男は逃亡の末、日本という島国に流れ着きそしてそこで国籍不明の浮浪者に身をやつしている。
 莫大な報酬などとうの昔に金融機関の口座ごと封鎖されていて手も出せない、かといって新しい人生を始めようにも自分はどこにも実在していないことになっている。
 浮浪者として公園に住み着き、夜な夜な兵器が使われたことを夢に見てうなされている。
 そんな自分の人生に男は絶望していた。
 いっそこんな人生なら自ら終わりを選択するべきだろうと男は住処である公園にある桜の木にロープを吊し、首を括ろうとしていた。
 時刻は深夜、公園には幾人かの浮浪者仲間が居たがこの時間なら皆寝ていて首を括っても朝まで誰にもバレないだろう。
 そう思った矢先、公園に若い女の声が聞こえてきた。
 ロープを木に括ったばかりの男は慌てて公園の生け垣へと身を隠した。
 すると公園に入ってきたのは二人の少女だった。二人ともラフな私服で、夜中に自宅から抜け出して来たといった様子だ。
「こんな時間に話ってなに?」
「この間もちょっと話したでしょ? 私が通ってる予備校に居る相談員のこと」
「あぁ、スクールカウンセラーだっけ? あんたが先生とか呼んでる」
「そうまぁたぶん予備校の職員さんだから、本職の心理カウンセラーってわけじゃないんだけど。でもすごいんだって。私も胸のつかえがなくなったっていうか。話してるだけですっきりするんだよね、大した話はしてないのに」
 二人の少女は公園の遊具に腰掛けて話し始めてしまった。
 男はどうすることも出来ずに生け垣の脇から少女たちの話に耳を傾けることしか出来なかった。
「でね、ほらあんたも色々悩んでるって言うから。先生のこと紹介してあげたいって思って。明日とかどうかな?」
「確かに悩んでることはあるけど。でもその相談員って予備校の生徒しか相手してくれないんじゃないの?」
「それがね、先生の休みの日限定で駅前の『トリスタン』って喫茶店のボックス席でね、カウンセリングしてくれるんだ。もちろん要予約なんだけどね」
「なにそれ、喫茶店間借りしてるの? なんか占い師みたい、やっぱお金取られるんだよね?」
「気持ち程度にお金渡す人は居るみたいだけど、先生は基本的に無償でやってくれるよ? だからさ、一度会いに行ってみない?」
「うぅん……お金かかんないならいいかなぁ……」
 まるで新興宗教の勧誘のようだと少女たちの話を聞きながら男はぼんやりと思っていた。
 今から死ぬ自分には悩みを解決してくれる占い師だかカウンセラーなんて関係のない話で、少女たちが深夜の密会が早く終わることだけを考えていたのだが―――。
「みんな言ってるよ。後悔してた気持ちが無くなる、とか。実際、私もそうだしね」
 少女のその一言に男は引っかかった。
 大きな後悔を抱えている自分にも、先生とやらは解決の術を与えてくれるのだろうか。
 けれど男の後悔はよくわからないカウンセラーにどうにかなるものでもない、と思ってはいるがしかし興味は惹かれた。
 自ら死に際を選んだ男はけれどこの世にまったく思い残すこともないわけでもなかったのだ。
「じゃあその先生って人の名前と連絡先教えてよ」
「うんっ。名前は折枝鼎さんって言って―――」
 男は少女たちの会話をひっそりと聞き終え、それから木に結んでいたロープを解いた。
 どうせ死ぬなら、少女が話していた折枝鼎という人物に会ってみてもいいかもしれない。
 浮浪者の自分を相手にしてくれるかはわからないが、もしかしたら―――。

 次の休日、男は鼎と対面を果たし心に抱いていた大きな後悔を綺麗さっぱりと取り除かれ、こんな自分でも生まれ変わった気持ちで明日から頑張ろうと生きる希望を抱くことが出来た。
 そして鼎の元には男の心にあった後悔の記憶の栞が舞い込んできたのだ。
 ロックボトム―――男がそう呼ぶ兵器は、男の手によってたった一つだけ未だに隠され続けている。
 知っているのは男だけだったが、後悔の記憶を抜かれた男はもうそのことについて気持ちを巡らせることはないだろう。
 つまり男の後悔の記憶を抜き取った鼎だけが兵器であるロックボトムの居場所を知っているのだ。
 鼎は自分の元に絶大な力を持つ兵器の情報が舞い込んできたことを、まるで天の啓示のように感じていた。
 正義を実行する者にはそれに見合った力が与えられる。
 そんな気がしてならない。
「純粋なる正義の行動とは、他者から見ればまるで魔女のように歪に見え迫害されるでしょうね。でも迫害を退ける力を、本物の正義の味方なら手にするはずよ」
 鼎の耳元で誰かがそう囁いた気がした。
 まるで歌うように綺麗な声。
 かつて予備校の相談室に飾ってあった朗らかに笑みを浮かべる少女の姿が鼎の頭の中に浮かんでいた。
 正義の味方―――その言葉こそ天の啓示、いや美しき少女からの啓示だ。
 この時から折枝鼎は自らを正義の味方と思い込むようになったのだ。
 彼女の傍に立つ者が水乃星透子の幻影だと気付かぬままに―――。

 長時間の睡眠により体中が強ばった状態で恋路は目を覚ました。
 はっと目を開けると見たことがない天井が映り、別の方へと視線を移すと鳥かごだらけのワンルームの部屋に自分が居ることに気付いた。
「おはよっす。やっと目が覚めたっすねー、三日も寝たてっすよ?」
 部屋の中央で何台も並べられたモニターに集中している多摩湖が、背中を向けたまま恋路に話掛けた。
「多摩湖、お前……」
 恋路は鼎と直接対峙した時の記憶を思い出していた。
 あの時、多摩湖の覚悟の結晶を取り込んでいたからこうして助かっているのだろうと目覚めたばかりの頭で考えていた。
「聞かなくてももうわかってるっすよね。私はただの予備校生じゃねぇっす。合成人間ってやつっすねー。もしかしてもう知ってたりする? 合成人間とか統和機構とか」
 その存在を少しでも知っていれば震え上がるような重大な言葉を、多摩湖はあっさりと口にした。
 それに対して恋路ははて? と首を捻っている。
「知らんな。合成人間ってのはなんだ、ヒーローものの改造人間みたいなものか?」
「まぁ、そんな感じだと思ってくれればいいっすよ。悪の組織の改造人間」
「お前は悪人なのか?」
「どうなんっすかねー。悪人つーか、悪いことだってしてきたっつーとこっすか」
「けれど―――」
 恋路は自分が寝かせられていたベッドから立ち上がった。
「お前の覚悟は目映かったぞ。折枝鼎に恋をしているというお前の覚悟は黄金よりも目映く、それゆえに本物だ」
「照れるっすよー、そんな風に言われると」
 並べられたモニターをせわしなく目で追っていた多摩湖だったが、動かし続けていた眼球が動きを止めた。
 そして少しだけ頬を赤らめていた。
「ま、あっしの恋心も嘘だったらよかったんすけど。どうも本気になっちゃったみたいなんすよ」
「それは恥ずべき感情じゃないはずだ。とても尊いものだと、俺は思う」
「そんなこと真っ直ぐに言っちゃう雨理が羨ましいっすねー。えーっと、ところで雨理」
「なんだ?」
「ベッドの傍に置いておいたお面、被った方がいいっすよ? 他人の視線が怖いってのまだ効果が続いてるはずっすから」
「そう……だったな」
 三日という時間を身体の回復に費やしていた恋路であっても、鼎から受けた攻撃を忘れたりはしなかった。
 他人の視線を強烈に恐れ忌避してしまう―――恋路はその弱点を心の中に栞として挟み込まれ続けている。
 心に挟まれた後悔という栞は易々と消え去るものではないらしい。
「どうせならもっと可愛らしいお面がよかったんだが」
 恋路はベッド脇にあったやけにリアルに作り込まれたウサギのお面を顔に被った。
 両目に穴が空いているので視界は開けているが、確かに相手からは顔を見られているという実感は薄れる気がした。
「じゃあ、もう振り向いてもいいっすよね?」
 モニターから視線を切って多摩湖は振り返った。
 恋路は多摩湖が自分へと視線を向けていることに一歩たじろいだが、それでもぐっと心を律し我慢出来ないこともなかった。
 ウサギのお面の効果は上々と言えるだろう。
「けれど折枝鼎に打ち込まれた弱点ってのは、どうしたら元に戻るんだ?」
「鼎ちゃんを殺したら消えるって言われたら、どうするっすかー?」
「だったら俺は一生、このお面を被り続けるさ」
 恋路はウサギのお面の下でにやりと笑う。
「お前の恋する相手を手に掛けるのに比べたらずっとマシだ」
「優しいこと言ってくれるじゃないっすか。いつからそんなに私想いになってくれたんすか?」
「俺は恋する者の味方だからな。お前だから特別というわけじゃない、勘違いするな」
「ははっ。恋する者の味方なんてマジで言っちゃうんすか。やっぱり雨理は面白いっすねぇ。―――で、そんな恋人たちの守護聖人はこれからどうするつもりっすか? まだ私に協力してくれたりする?」
「俺は、俺の心に挟まれた後悔という名の弱点を抜き取ってもらわなければならない。だからこそ折枝鼎にもう一度接触しなければならない。そのついでにお前の目的を手伝ってやってもいいぞ」
「助かるっすよ、雨理。私一人じゃ鼎ちゃんを守り抜けない、けど雨理が協力してくれるならどうにかなるかもしれないっす」
 守り抜くと口にした多摩湖を見て、恋路は小さく頷いた。
 折枝鼎のあの凄まじい能力を知ったというのに多摩湖はそれでも―――いや、だからこそ折枝鼎を守らなければと改めて決心していた。
 MPLSとして統和機構に目を付けられればどう足掻いても折枝鼎は生きてはいけない。
 彼女の力が絶大であればあるほど、『最強』の刺客やあるいは『取り消し』の名を持つ暗殺者が差し向けられるであろう。
 そうなる前に、多摩湖はなんとしてでも折枝鼎が行なっている他人の心から後悔を抜き取るという所業を止めなければならない。
 出来ることならもう二度と力を行使出来ない状態にすることが出来ればよいのだが、MPLSの能力を封印するなどということは多摩湖にはどうあがいたところでその方法が思いつかなかった。
「ともかくもう一度、鼎ちゃんに会って能力を使うことがどれだけ危険か知らせないと」
「それなら簡単なんじゃないか? もう一度予備校のカウンセリングルームに出向くだけでいい」
「それがそう簡単にはいかないんすよ。ほら、あの部屋、雨理がめちゃくちゃに壊しちゃったから今は封鎖中だしなによりここ三日ほど、鼎ちゃんは予備校に出勤してないんす」
「なら彼女は今どこでなにをしている?」
「それをずっと探ってたところなんすけど―――」
 するとこんこん、と部屋の窓ガラスを叩く音が聞こえ多摩湖は窓を見た。
 そこには一羽の鳩が部屋の中に入れて欲しそうに窓の桟に留まっている。
「おかえり、ヨハネ。ごくろうさん」
 多摩湖は立ち上がり窓辺まで行くと窓を開けて鳩を招き入れると、鳩はすぐに多摩湖の肩へと飛び移った。
 多摩湖の能力、レディバードガールによって鳩は完全に多摩湖の言うことを聞き、調教するよりもより従順に多摩湖の意のままに操れるようになっていた。
 鳩は首に情報収集用の小型カメラを付けていたのだが、多摩湖はカメラを外すと鳩を部屋にいくつも並んでいた鳥かごの一つへと戻した。
 飛行する為に体積が極力軽くなるよう進化した鳥にとっては小型カメラといえかなりの負担になるのだ。
 多摩湖はそんな鳥のことを考え、偵察や情報収集は何十羽という鳥を操り小まめにローテーションを組んで行なっていた。
 能力を行使すると言っても操る相手のことを思いやる、それは非効率的で合成人間の在り方としては正しくないのかもしれないが―――。
「悪くないな、まったく」
 お面の下で恋路はふっと笑みを漏らしていた。
 多摩湖はうん? と首を傾げて恋路を見たが恋路はなにも言わず、その代わりとばかりに―――ぐぅとお腹を鳴らした。
「そうっすね。復活したなら、まずは腹ごしらえっす」
 その言葉に待ってましたとばかりに恋路は頷いたのだった。

 多摩湖の部屋にはカロリーバーやアイソトニック飲料といった栄養摂取を目的とした食料品しか置いてなかったので、外食をする為に二人は多摩湖の住んでいるマンションを出た。
 とはいえ今の恋路は他者の視線に弱くなっている。お面をしたからといって、人混みの中に出ればどうなるかわからない状態だ。
 そこで多摩湖が選んだのは都会の穴場と呼べそうなショッピングセンターのフードコートだった。
 そのショッピングセンターは休日には家族連れで賑わい、平日でも夕方近くになれば夕食の材料を買い求める主婦層が多く訪れる施設なのだが、平日の午後あたりだと殆ど客が居ないというぽっかりと人が訪れなく時間帯があるという場所だった。
 現に恋路と多摩湖が座っているフードコートには二人以外にまったく客がおらず、そのせいでフードコートに立ち並んでいる飲食店の店員もどこかサボり気味にだらだらとしていた。
「ふん、なるほどな。お前の力はだいたいわかった」
 食後にピーチコンボのクレープをむしゃむしゃ食べている恋路は多摩湖の能力を一通り聞き終えて感心していた。
「合成人間ってのはみんなそんな凄い能力を持っているのか。なんというのか自分はつくづく特別な存在じゃないと思い知らされるな」
「いや、そんなことねーっすよ。雨理は充分に特別っす。ヤバイって意味でね」
 多摩湖の方はスモールサイズのフレンチフライをぱくぱくと摘んでいる。小食というよりは恋路の食事に付き合っているという感じだ。
 両者は協力関係になるにあたって互いの能力を教え合っていた。
 統和機構の合成人間同士が共闘する時でさえ自身の能力を秘す場合が多いのだが、多摩湖はあえて合成人間や統和機構といった単語を会話の中に挟み込み、この世には危険な存在が確かに居るのだと恋路に理解してもらおうとしていた。
 つまり警告の意味も込めてあえて本当のことを口にしたのだ。
 しかし驚きという意味で言えば、恋路よりも多摩湖の方が衝撃は大きかった。
「MPLSがこんな身近に二人も居たなんて……あっし、どんな確率で出会っちゃってるんすか。宝くじの一等を二回連続当てた気分っす」
「言っても俺のは他人から借り物をするだけだけどな。しかし、それに比べて折枝鼎の栞の能力の凄まじさは確かに世界規模の組織に狙われるだけある」
「雨理も充分気を付けた方がいいっす。協力してくれるから今は見逃してるだけっすから」
「気を付けようもない気もするがな。それにお前だってすでに組織を裏切るような行動を取っているだろう? 折枝鼎を守りながら今後はどうするつもりだ?」
「組織に敵対したり反逆したってどうせ潰されるだけっすからねぇ。二人で手に手を取って世界の果てまで逃げ続けるっていうのが理想っすよ」
「それは素晴らしい! とっても素敵だ!」
 がたんっと座っていたイスから立ち上がって絶賛し始める恋路に対して、周りに人気がないとわかっていても多摩湖は急いで止めに入った。
「ちょっと落ち着くっすよ、雨理! 声が大きいっすから」
「いいじゃないか、別に誰に聞かれても。恥ずべきことじゃないだろう?」
「目立つのは雨理的にも問題あるでしょって言ってるんす。今はなるべく目立たないに越したこと―――」
 言いかけていた多摩湖がはっと振り返った。
 異変に気付いたのだ。
 その異変の正体とは猛烈な勢いでこちらに向って掛けてくる足音だった。
「見つけた―――!」
 二人に向って全速力で走り寄ってきているのは、竹刀袋を手にした制服姿の女子高生だった。
 忍び寄るとか隙を付くという意識がまるでない、闘争心に火が付いた猪のような派手な疾走だ。
 まるきり素人の行動だが、それ故に理由が計り知れない。
 女子高生は手にしていた竹刀袋の中から一メートルはあるバールを抜き放つと奇声を上げて恋路たちへと飛びかかってきた。
「―――!」
 恋路と多摩湖はとっさに左右へと飛び退いた。
 すると女子高生の手にしたたバールがまだ食事途中だったフードコートのテーブルへと勢いよく振り下ろさればきっとテーブルを真っ二つにたたき割った。
 やはり躊躇がない。
 脅しでもなければ手加減もしない。
 もし恋路や多摩湖の体に直撃していれば致命傷は免れない一撃だった。
「こいつ―――殺るといったら本当に殺る覚悟があるっ!」
 女子高生の行動を間近に目撃した恋路は目を剥いて驚いている。
 見知らぬ女子高生からの突然の強襲に事態が把握出来ないでいるのだ。
 しかし多摩湖は違った。
 突進してくる女子高生を見た瞬間から察しが付いていた。
(こいつっ、鼎ちゃんの手の者って感じだ!)
 女子高生が鼎に繋がっていると直感した多摩湖は回避行動から一点して、即座に左足を軸にくるりとバレリーナのように回転し勢いを付けた蹴りを女子高生の脇腹へと命中させた。
 バールを振り抜いたばかりの女子高生の脇は隙だらけで多摩湖の蹴りがモロに直撃し、その体はフードコートのテーブルやイスにぶち当たりながら吹っ飛んでいく。
 女子高生は蹴りの衝撃で意識を失ったのか床に突っ伏し動かなくなった。
 その光景を見てほっとした恋路だったが多摩湖の方は焦って恋路の腕を引いた。
「ここから逃げるっすよ、早く!」
「あ、あぁ。店員には目撃されたろうしな」
「そういうことじゃないっす。聞こえないっすか?」
 言って多摩湖はちらっとエスカレーターの方へと目を向けた。
 人気のない昼間のフードコードのはずなのにエスカレーターの上の階からだだだだだ―――っと駆け下りてくる足音が聞こえる。
 それも一人ではなく複数人。
「あっしらの居場所がバレたってことっすよ。しかもこの相手には『恐怖心』がないっす!」
「折枝栞の仕業か……。能力が進化してるな、やるじゃないか」
「感心してる場合じゃないっすよ。鼎ちゃんの命令に忠実で恐怖心がないってことなら例え一般人でも脅威っす」
 すでに多摩湖は恋路の手を引いて駆けだしていた。
 向う先は非常用の通路だった。そこからならショッピングセンターの駐車場に抜けられる。
 そして駐車場には多摩湖が乗ってきたレーサーバイクが駐めてあった。
「雨理っ、バイクの運転に自信あるっすか?」
「いや、ないな。運転ならお前の方が得意なんだろ?」
「あーしは安全なルートを見つけることに集中しなきゃいけないから聞いてるんすよ!」
 背負っていたリュックサックの中から多摩湖はごついゴーグルを取りだして装着している。
 ゴーグルのレンズはヘッドマウントディスプレイになっていて多摩湖の視界には何分割もされている映像が同事に流れ込む仕組みになっていた。
 写し出されている映像とは多摩湖が能力で操っている鳥たちによって届けられるリアルタイムの街の映像だ。
 つまり多摩湖はゴーグルを介して街中を跳び回る鳥たちの視界と同調することが出来るのだった。
 ただしいくつもの視界を同事に把握するのは脳の処理能力を限界まで使う曲芸とも言える荒技である為、それ以外の行動をすることが出来なくなってしまうという弱点もあった。
「そういうことなら、バイクの運転は俺に任せろ。とっておきの覚悟を持ってる!」
 非常通路から駐車場に抜けた二人はすぐさま停めてあったバイクの元まで向うと、恋路が運転席へと跨がり多摩湖はその後ろに座って恋路の腰へとぎゅっと腕を回してしがみついた。
 恋路は胸ポケットから覚悟の欠片が入ったピルケースを取りだし、黒真珠さながらの神秘的な輝きを宿す丸い粒に燃え上がる炎のような赤い模様が入っている覚悟の欠片をつまみ上げ、お面の下の口へと放り込んだ。
 ごくりと覚悟の欠片が恋路の喉を通っていく。
 恋路が飲み込んだ覚悟の欠片は、恋路が通っていた高校で有名人だったある女子生徒が落したものだ。
 恋路がその覚悟を拾ったのは彼女が怪しげな電器系ジャンクショップから出てきた時だった。
 プロテクター付きの黒革のツナギを着て足下は安全ブーツで固めているおよそ女子高生らしく見えない彼女は颯爽とオフロード仕様のバイクに乗って去っていった。
 去り際の颯爽とした様子に恋路は見とれ、思わず彼女の体からこぼれ落ちた炎の模様を宿した覚悟の欠片を拾ってしまったのだ。
 恋路は欠片の燃えるような美しさを見て思った。
(彼女はきっとプロのバイクレーサーを目指しているに違いない。勝負の世界に生きようとする覚悟がある!)
 実際に彼女がプロレーサーを目指しているといえば違うのだが、しかし追っ手からバイクで逃げるという現状で恋路が彼女の欠片を飲み込んだのは偶然にしても最善だった。
 何故なら黒革のツナギの彼女はバイクの運転技術はプロ以上という腕の持主なのだから。
 ギャルンッ、とエンジンをかけて多摩湖を後ろに乗せた恋路はゴールデントリクルの能力を発動させていた。
 能力とはもちろん飲み込んだ覚悟の持主の能力を借り受けるというもので―――。
「ふんっ、敵から逃げるってのはオレの趣味じゃないが、しかしどうにか切り抜けるとするか」
 ウサギのお面の下で不敵に笑って言うと恋路が跨がるバイクが猛スピードで発進した。
 彼の駆るバイクが向った先はなんと、
「そのままセンター内に突っ込むっす!」
 脱出したばかりの非常通路へとタンデムしたバイクは突っ込んだのだった。

 鼎の持つ携帯端末に彼女が『協力者』と呼んでいる女子高生の一人から連絡が入ってすでに十分以上が経っていた。
 連絡の内容とは雨理恋路と羽鳥多摩湖を見つけたので、鼎の命令通りに二人を始末するというものだ。
 けれど未だにその後の報告がないことから、鼎はその女子高生が二人を逃してしまったのだろうと予想していた。
「恐怖心を取り除いたといってもただの女子高生だものね……やっぱり彼らを相手にするならより強力な武器が必要なのよ」
 独り言を言いながら鼎が歩いているのは、数年前に閉鎖された工場の内部だった。
 この工場は寺月恭一郎という実業家が所有していたのだが、彼が急死した後は誰に所有権が移ったのかはっきりせず、その所為で解体されたり売り飛ばされることもなくただただ閉鎖されたままの状態で放置されていた。
 今や廃墟と化した工場施設だったがそういった場所にありがちな若者たちのたまり場や肝試しのスポットになるということはなかった。
 何故なら工場の地下には人体に有害な汚染物質が未だに眠っているという噂があるからだ。ただの噂に過ぎず行政の手が入ることもないのだが、噂を知る近隣の住人達は決して近寄ろうとはしない。
 そのおかげとでも言うのだろうか、工場内はうらぶれた外観ほどは荒れ果ててはいなかった。
(汚染物質なんて噂もきっとアレの隠し場所にする為に意図的に流されたに違いないわ。まぁ、そんな噂だけで隠しきろうとしてたわけじゃないんでしょうけど)
 ひび割れたリノリウムの廊下を歩いていた鼎は急に立ち止まり周囲を見渡す。
 そして廊下のなにもない壁に向って手を伸ばすと壁を指先で撫でていく。
 鼎の指が壁のある一箇所を触るとパソコンのキーボードを押すような感触がした。
 そこを押した途端、鼎の顔の高さくらいにあった壁の一部がすぅと音もなく凹んだかと思うと、続いて暗証番号を入力する為のキーパッドが現われた。
 電力の供給も永らく止まっているはずなのに鼎がキーパッドに暗証コードを打ち込むとよどみなく反応する。
 そして正しい暗証コードが読み込まれるとキーパッドの横の壁がこれまた音もなく自動ドアのように左右にスライドし、その先には地下へと続く階段が現われたのだった。
 鼎は階段を警戒する様子もなく下り始めた。
 工場内にはこういった隠された通路や階段が複雑に張り巡らされている―――しかしそのことを知っているのはごく一部の限られた人間だけで、そのごく一部の者達も今や大半が命を落してしまっている。
 鼎が喫茶店を使って行なっていたカウンセリングにあの男がやってこなければ、誰にも知られることなく工場は朽ちるのを待つばかりだっただろう。
 彼女のカウンセリングを受けに来たあの男が胸に抱えていた巨大な後悔―――ロックボトムという兵器にまつわる記憶を垣間見た鼎はこの施設にロックボトムの一つが眠っていることを知ったのだ。もちろん入手方法も把握している。
(強大な悪には強大な武器が必要なのよ……私にはそれを手にする資格がある、だって私は正義の味方なんだから)
 自分の行いは正しいと何度も心の中で繰り返し、鼎は深い地下へと続く階段を下りていく。
 正義の味方であろうとする盲信―――それは繰り返される自己暗示であり、彼女はすでにどうして自分が正義の味方だと思ったのか、最初に彼女にそれを目指すよう仕向けた少女のことすらすっかり憶えてはいなかった。
 まるで自分は物心付いた時からそれを目指していたかのように、正義の味方になりきろうとしているのだが彼女が気付けないだけでその想いと行動はまるきり暴走している。
 しかも暴走した正義の味方は世界そのものを巻き込もうとしていた。
 その先に待つのは崩壊と破滅―――あるいは死神の口笛であることを知らずに。

 ショッピングセンターにバイクで突っ込んでいった恋路と多摩湖は、センター内部をエンジン音を響かせ疾走していた。
 当然、警備や警察への連絡はすでにされているのだが、そういった者達が駆けつけるまで彼らを止められる存在はここには存在していない。
 恐怖心を取り除かれた鼎の協力者達もショッピングセンターから逃げ出そうとしていたはずの恋路と多摩湖がバイクに戻ってくるとは思いもしなかった。
 だから一瞬の虚を突かれどう対処すべきか協力者達が思考している内に、恋路は瞬く間に彼女らの真横をフルスロットルで通り過ぎた。
 協力者達が走って追いかけようとした時には恋路の運転するバイクは追いつける距離にはいない。
「あいつらを出し抜いたのはいいが、折枝鼎の配下の者が数人だけってことはないだろう。十分も待たずにこのセンターは包囲される」
「その通りっすね、今この場所に向って少なくとも二十人以上の人間が急速に近づいて来てるっす。車とかバイクに乗ってる奴らが厄介っすよ」
 街中に飛び操っている鳥たちから送られて来る映像をヘッドマウントディスプレイで見ている多摩湖は同事に街のマップと照らし合わせて逃走経路を導き出していた。
「奴らが追ってこられないところは―――雨理、このまま屋上に出るっす!」
「なるほど、お前の狙いは分かった。だったら手荒な運転になるからしっかり掴まってろよ―――!」
 言い終わる前にバイクは凄まじい排気音を響かせて前輪が高らかに上がった。
 そのままバイクは目前にあった階段を器用に駆け上がった。
 バイクは三階分の階段を一気に登り詰め、屋上駐車場へと飛び出すと勢いを止めることなく今度は屋上を囲んでいたフェンスに向って突っ込んでいく。
 このまま突っ込めばフェンスに衝突することは避けられないのだが、恋路は屋上に飛び出した一瞬の内にフェンスの一部が老朽化し簡単に破れそうな箇所があることを見抜いていた。
 普段の恋路だったらそこまで目ざとくフェンスの耐久性を見抜くことは出来ないが、恋路が飲み込んでいる覚悟の欠片の持主なら話は別だ。
 覚悟の持主は一瞬の判断が凄まじい程に冷静かつ適切であり、そうでなければ生き延びる事が出来ない修羅場を数多経験してきている。
 例え四方八方から追っ手が迫ってきていようとも、彼女の覚悟の力と判断力にかかれば突破出来ないということはありえないのだ。
「なにが狙いで屋上なんかに―――!」
 ようやく追いついてきた協力者である女子高生達が屋上駐車場を駆けるバイクを見て声を上げた。
 けれど恋路は女子高生達を気にも留めることなく、狙い通りに老朽化したフェンスにバイクごと飛び込んでいた。
「バカなっ!」
 女子高生のそんな呟きに応えるように、ハンドルを握る恋路は平然と言う。
「いいや、問題はないぜ」
 バイクはフェンスを突き破って勢いを付けたまま落下するかと思われたが、恋路が飛び込んだフェンスの向こうには屋上よりも少し低い位置に隣のビルの屋上があった。
 ザザザザ―――ッ、とタイヤを滑らしバイクは隣のビルの屋上へと着地したのだ。
 そしてその様子を呆然と見ているしかない女子高生達を見上げるとウサギのお面の口元だけをずらしてニヤリと笑みを見せつけた。
「じゃあな―――」
 それだけ言い残して恋路はバイクをくるりと半回転させ再び発進させた。
 屋上から隣の屋上へとバイクで飛び移るという神業のような運転もまるで当り前のような気軽さで、恋路は着地したビルの屋上からまた隣のビルへと飛び移っていく。
 そうしてあっという間にショッピングセンターから遠ざかっていった。
 しかし恋路と多摩湖は鼎の協力者達から逃げているだけではない。
 むしろその逆だった。
「このまま鼎ちゃんと再び対決する他に道はないっすね」
 多摩湖の言葉に恋路は無言で頷いた。
 すでに街中を飛んでいる鳥達から送られてくる映像によって鼎の居場所は判明している。
 再会と再戦の場所へ―――決着を付ける時が近づいていた。


つづく

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