血と薔薇と骨

 

 薔薇の繋がりは血の繋がりよりも濃い。

 そんな言葉は私が勝手に作り上げたものなのですけれど、私がお嬢様より頂いた薔薇は、血よりも濃い赤色をした、そして香水を閉じ込めているかのように濃厚に香り立つ、それは美しい薔薇でした。
 お嬢様のお屋敷は町を見下ろす高台にあって、そのお庭には幾本もの銀杏の木が並んでおりました。
 季節になると銀杏の木々は風で葉を散らし、お屋敷のお庭はまるで黄色い絨毯でも敷き詰められたかのように銀杏の葉で溢れてしまうのです。
 毎日がそんな有様でございましたから、使用人の方々も手を焼いており、銀杏の葉を片付けるだけが仕事というわけにもいきませんので、そこで私が雇われることとなりました。
 私というのは、そこいらに一山いくらで溢れているただの女学生でございます。
 私の母がかつてお嬢様のお屋敷で女中をしていた縁があったものですから、いくらかの駄賃を頂いて私はお庭の銀杏の葉を片付けるお仕事を承りました。
 私は好んでこの仕事をしております。
 というのも、このお屋敷で働く女性にはすべからく女中服が支給されるものですから。その女中服というのは、私のような平凡な女学生では袖を通すにも心が躍る、とても仕立ての良い可愛らしい服なのです。
 お淑やかな黒いワンピースにフリルの付いた白いエプロン。頭には大きな白いリボン。エナメルの靴に、白いソックス。身につけているだけで自分が上流階級の一員に加われたような気持ちになれる西洋式の服装です。
 この服を着て仕事が出来るだけで私はとても嬉しいのです。どんな過酷な仕事でもこなせるのではと思わせてくれる程でした。
 実際のところは、私の仕事は過酷どころかとても単調な体力ばかりを使う仕事なのでした。
 毎朝お屋敷に伺い、午前中いっぱいを使って銀杏の葉を集め、猫車に葉を載せて焼却炉へと運ぶ。その繰り返しです。
 お昼に差し掛かるとお屋敷の女中頭のおばさまにおにぎり二つと温かいお茶を頂けるので、すっかりきれいにしたお庭の銀杏の木の下に腰掛けて休憩を取ります。
 おにぎりの具が鮭であるのか梅であるのか、はたまた時にはいくらである場合もありまして、私はおにぎりの具のことで頭がいっぱいになるのがこの時間であります。
 そんな時でした。
 どこからともなく、ぽとりと私の胸元に真っ赤な薔薇の花が落ちてきたのでした。
 まるで魚を咥える野良猫のごとくおにぎりを口に咥えたままに、私は胸元に落ちた薔薇を拾い上げて目を丸くしました。
 私の周りには誰もおりません。
 そうなるとこの薔薇はどこから降ってきたのでしょう。
 そう思うと頭上が気になり、顔をあげるとお屋敷の二階の窓から天女さまが、いえ、天女さまに見まごうばかりのお嬢様がこちらを見下ろしていたのです。

「端女の胸に薔薇一輪」

 まるで歌うようにお嬢様は言い、機嫌が良いのか悪いのかわからない冷たい表情で私を見下ろしたかと思うと、すっと窓の奥へと身を引いていかれました。
 お嬢様の声は極楽に居るという鳥が囀ったのならば、おそらくあのように美しい声に違いないと思うほどの美声でした。それに美貌は類を見たこともなく、白く透き通った肌に濡れたように艷やかな黒髪で、離れていてもはっきりとわかるくらいにまつ毛が長く、双眸は宝石のようにきらきらと光っておりました。
 私と同じ人間だなんて、思えるはずがありません。
 お嬢様は特別な、それこそ天女さまの末裔だと言われればしっくりと来る、そのくらいに浮世離れした麗人なのです。
 そんなお嬢様が私に一輪の薔薇を。
 なんの気まぐれなのか存じませんが、私は胸に落ちた一輪の薔薇を両手で包むように拾いあげると、ぽぉとのぼせ上がるように体が熱くなりました。
 本当にひと目見ただけでお嬢様に心を奪われてしまったのです。
 あのように尊いお方に感情を抱くなんていけないことと知りながらも、私はどうしてもお嬢様のことを想わずにはいられなくなっておりました。
 お嬢様から頂いた薔薇は、いつまでも枯れずにいて欲しいと願い、家に持ち帰ると神棚にお供えしました。天女さまから頂いた薔薇ですもの、神様のお側に置くべきと考えたのです。
 この日から私がお屋敷で働く理由が、お嬢様をもう一度お目にかけたいというものに変わりました。

 お嬢様に薔薇を頂いてからというもの、私は寝ても覚めても、いえいえ、そういう言い方は正確ではありませんね。覚めることもない夢心地とでもいいましょうか、お嬢様の姿を追い求めてしまいました。
 ある種の病理のような状態でしたから、お屋敷で働いていてもついお嬢様に関する噂などを、耳ざとく聞き集めてしまうのでした。
 お嬢様は謎めいたお方でした。
 お脚が悪いらしく、滅多にご自分の部屋から出ることはなく、お部屋のお掃除や食事などを運ぶ女中はお嬢様に認められた限られた者のみということでした。
 ですからお屋敷で働く者でもお嬢様と直接お話をされた方は数少ないという話です。
 それにお嬢様のお脚ですけれど、それについてはよからぬ噂もありました。なんでもあまりにお嬢様が美しく、その美貌を独占したいがばかりにお嬢様のお父上がお屋敷の外に出られぬようにとお嬢様の両脚の腱を切ってしまわれたというのです。
 嘘か真かわかりませんが、お嬢様の美貌をひと目みた私としてみては、さもありなんと思ってもしまいます。かの美貌を独占出来るのでしたら、どんな悪魔的所業に手を染めてしまってもおかしくはありません。人はそれを魔性と呼ぶのでしょう。
 美貌と魔性と薔薇。
 お嬢様のことを知れば知るほどに、興味関心は深まっていきます。
 お嬢様のことを知りたくて右往左往している私でしたが、そんな私をあざ笑うかのようにお嬢様はまたも私にそのお顔を見せてくださりました。
 それは午後のお庭の掃除を終えた夕暮れのこと。
 私は薔薇を頂いた時のことを反芻してお嬢様の部屋の窓を見上げておりました。
 すると窓に人影が近づいてくるではありませんか。
 私はそのまま見上げていてよいのか、それとも目を逸して知らぬ顔をするべきなのか迷いました。戸惑っている間に窓がゆっくりと開いて、お嬢様が顔の半分だけを覗かせました。
「この窓をいつも眺めているね」
 お嬢様が私に話しかけています。その事実を私はまっとうに受け取ることが出来ず、夢の中の出来事のように遠くに感じておりました。
 窓の奥に居るお嬢様を思って幾度も窓を見上げていたことを、お嬢様に知られていた。そのことの気恥ずかしさに、嗚呼なんとか誤魔化さなくてはと浅ましくも考えてしまいます。
「……あ、あの……どうして薔薇を」
 舌がもつれて、言葉がうまくは並びません。
 けれど言葉を返さなければ、お嬢様との会話が終わってしまう。そう思えてならず、私は懸命に続けます。
「薔薇を……頂けたのでしょう?」
 私が問いかけると、お嬢様は温度のない声で返してくださいました。
「いらなかったから」
 するとつまり、私に薔薇をくださったわけではなく、ただ単にいらなくなった薔薇を窓の外へと捨てたところ、その下に私がたまたま座っていただけということなのでしょうか。
 だとしたら、お嬢様から薔薇を頂けたとのぼせていた私は間抜けな勘違いをしていただけです。
 恥ずかしいです。悲しいです。
 お嬢様に見下されているこの場で、ぽろぽろと涙を流してしまいそうです。
 するとお嬢様は、まるで脈絡というものがない調子で、こんなことをおっしゃいました。
「私が死んだらお前に私の骨をあげよう。薔薇はいつか枯れるが、骨はいつまでも残るだろう?」
「そ……それは、どういう意味でございましょう?」
「いらないから。薔薇も骨も、なにもかも」
 それだけ言うと、お嬢様はすっと窓の側から身を引かれ姿が見えなくなってしまいました。
 私はお嬢様の言葉の意味がわからずに、ただただ困惑してしまいました。
 お嬢様の骨……? お嬢様が死んだら……?
 お嬢様はお脚以外にもどこか悪いのでしょうか? 死ぬことを諦観しているような、そんな口ぶりにも聞こえました。
 天人五衰と申します。
 天女の如き方なので人とは違う兆候にて、死が迫るのを察しているのでしょうか。
 お嬢様が亡くなる。
 そのことを考えると、悲しさも切なさも感じることが出来ませんでした。
 なにやら生も死も超越した存在のように思えていたものですから、いまいちしっくりとは来ないのです。
 そのようなことをお嬢様に言えば、お嬢様は笑うのでしょうか。
 それとも私をなんだと思っているのかと罵られるのかもしれません。
 あれこれ想像してはみるものの、実際のお嬢様は私の想像の遥か範疇外であり、超然としておられます。
 それにしても。
「お嬢様の骨……」
 一度想像するとなんとも魅力的なものに思えてなりません。
 嗚呼、私はお嬢様の甘き毒のような魔性に囚われているのです。

 その夜から同じ夢を度々見るようになりました。
 夢の中で私はお嬢様のお部屋に誘われ、私とお嬢様はまるで仲睦まじい姉妹のように豪奢な寝台の上でおしゃべりをするのです。
 私のような凡俗が、高貴なるお嬢様と姉妹だなんてとんだ勘違いなのですけれど、夢なのでしようがありません。夢は荒唐無稽なものと相場が決まっていますでしょう。
 私はお嬢様となにやら楽しく話しているのですが、その内にじゃれ合うように柔らかな寝具の上に二人で横たわり、私の手はお嬢様の首へと伸びていきます。
 両手でお嬢様の華奢な首を包み込み、ゆっくりとゆっくりと力を込め、私はお嬢様の首を締めていくのです。
 首を締められている間、お嬢様はうっすらと微笑み、やがてお嬢様の呼吸は止まってしまいます。私がこの手でお嬢様を絞め殺してしまうのです。
 すると途端、お嬢様の体がまるで煙のように蒸発して、あとに残されたのは寝台に横たわるお嬢様の骨のみ。
 私はそんなお嬢様の骨をひとかけら拾い上げて、そっと懐に忍び込ませるのでした。
 そこでいつも私は目を覚まして、なんと業の深い夢を見てしまったのかと青ざめるのです。
 嫌な汗をかいていて、呼吸は乱れ、寝具を跳ね除け私が半身起き上がると、どこからともなく薔薇の香りが漂ってきます。
 神棚にお供えしているお嬢様の薔薇が香っているのです。
 不思議なことにお嬢様の薔薇は枯れることなく今もなお生き続けておりました。
 薔薇は枯れるが、骨ならばいつまでも残る。
 お嬢様はそうおっしゃいましたが、お嬢様の手によって落とされた薔薇もまた不滅の魔法でもかかっているのかもしれません。

 毎夜、お嬢様を殺す夢を見る。
 そんな不浄なる夢がなにを象徴しているのか、私にはすっかり得心がいっておりました。
 つまるところ私はお嬢様の骨が欲しいのです。
 嬢様は自身の骨を私にくださるとおっしゃられたのです。たとえ戯れだとしても、私は真に受けてしまいました。
 真に受けるとそれはもう、喉から手が出るほどに欲しくなってしまいます。
 けれど実際にはお嬢様の骨なんて手に入るわけもなく、だからこそ夢に見てしまうのでしょう。
 恐ろしくも妬ましい、お嬢様の骨の夢。
 いつか夢に取り憑かれた私はお嬢様の部屋へ伺い、本当にお嬢様の首を締めてしまうのではないかとすら思う時があります。
 そうならぬようにするには、私はお嬢様にもう会わない方がよいのです。だというのに、私はお屋敷のお庭を掃除する日々の中、どうしてもお嬢様の部屋の窓を見上げてしまいます。
 手にした箒でお庭を掃いてみたところで、このところめっきり銀杏の葉も減っているというのに。
 そう、季節は移ろうのです。
 銀杏の葉がなくなれば、私の仕事もなくなります。私が女中としてこのお屋敷にいられる時間も限りがあり、その限りは刻一刻と近づいていました。

「病葉の最後の一枚が落ちた時、お前はこの屋敷を去ると聞いた」

 窓枠に引っかかっていた銀杏の葉が一枚、か細い人の手によって落とされました。
 その言葉もまた、銀杏の葉のごとく私の元へと舞い落ちてきたのでした。
 肌寒くなってきた午後の窓辺に、お嬢様の姿があったのです。
「端女―――銀杏女よ。病葉を溜め込み冬眠する準備は出来たのかい」
 お嬢様はいつもよりも饒舌であられるように思われました。
 もしかすると機嫌がよいのかもしれません。その表情はいつもと変わらぬ冷たいもので、本心は伺い知ることは出来ないのです。
「わ、私は……栗鼠ではありません。冬眠などいたしません」
「ならば何故に屋敷を去る?」
「そういう約束になっておりますので」
 引き止められているのでしょうか、私は。
 いえ勘違いでしょう。引き止めるというのは私に執着が湧いたということに他なりません。
 お嬢様に限って私のような端女に執着されるはずがないではありませんか。
「銀杏女、もっと窓の近くに寄るといい」
「……?」
 私は仰せのとおりにお嬢様が居る二階の窓の真下まで近づいて、お嬢様を見上げました。
 するとお嬢様は着ていた白い浴衣の袖から何やら取り出して、窓の外、つまりは私に向かって落とされました。
「それもまたいらないもの。だからお前が持つとよい」
 お嬢様が私へと落としたもの、それは受け取ってみると、指輪のようでした。
 それもただの指輪ではなく、乳白色をした鹿の角のような素材で出来ている不思議な指輪です。角……でないのならば、歯のような、骨のような素材、とまで考えて私はぞくりと総毛立ちました。
「まさかお嬢様の……」
「私の肋骨の一本だよ。削り出して指輪に加工するのに苦労した」
「そのような貴重なもの……頂けません」
 あれだけ欲しいと夢見ていたのに、いざ手にしていると恐れ多くて震えてきます。
 お嬢様の骨で作り上げられた指輪。
 枯れることも、朽ちることもない、お嬢様の一部。
 仏舎利よりも功徳がありそうな指輪を手に、私はお嬢様にお返しするすべをなんとか考えつこうと必死で、指輪をじっと見つめてしまいます。
 すると窓の向こうで、お嬢様がくつくつと笑いを堪えている声が聞こえてきました。
「お前は阿呆だね。私の骨だなんて、どうして信じてしまえるんだい?」
「え……は、い?」
 お嬢様が言ったのではありませんか。
 お嬢様の肋骨の一本だと。そう言われれば私は阿呆のごとく信じるに決まっています。お嬢様の言葉を疑うだなんて考えたこともないのですから。
「象牙の指輪だよ。貢物の一つだけれど、いらないからお前にあげる。そこそこに価値のあるものだ、お前の好きにするとよい」
 そう言うとお嬢様は窓辺から身を引いていきます。
 私は何故だかその時、もうお嬢様には会えないような気がしてなりませんでした。
 けれど、お嬢様は窓を閉めるその間際に、ふと少しだけ手をお止めになりました。

「銀杏女―――来年も銀杏の葉は散るだろうね」

 その言葉がなにを意味しているのか、私はすぐに理解して、はいと大きく返事をしました。
 今年の銀杏は散り終えてしまうけれど、来年また銀杏はその身に葉を茂らせ、やがては枯れて散っていく。
 お庭には黄色い絨毯が引かれて、私はまたせっせと掃除をしに来られるかもしれない。
 その時にはまたお嬢様が窓辺にいらしてくださるかしら。
 私は頂いた指輪を大切に握りしめて、二階の窓に向かって深々と頭を下げました。
 お嬢様の薔薇と骨。
 そして交わされた幾ばくかの言葉たち。
 それは宝石よりも輝かしい記憶と想いに変化して、私の体の隅々にまで血液の代わりとなって流れていきます。
 銀杏の木々よ、早く早く、その身に葉を宿し、鮮やかに染まって散っておくれ。
 阿呆と言われようとも、そう願って止まない私なのでした。



おしまい

 
  

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