ブギーポップアンブレラ/雨上がりの恋路2

 折枝鼎((おりえだ・かなえ)が事務員として勤務する予備校で進路指導を兼ねたスクールカウンセラーの真似事を始めてから三ヶ月が経っていた。
 予備校には塾講師の他に、授業に使う教材の準備や模試の会場設営などを行なう事務員が勤務しており、鼎はこの春に大学を卒業したばかりの新卒の社会人として大手予備校の事務として働き始めたばかりだった。
 そんな鼎がなぜ、カウンセラーの真似事をしているのかといえば、有り体に言えば押しつけられたのだ。
 この予備校には元々美大生の塾講師が進路指導兼カウンセラーのようなことをしており、それが大変に評判が良く塾生や講習を受けに来ている高校生達が頻繁にその美大生の元へと相談に訪れていたのだが―――その美大生はある日唐突に塾講師の仕事を辞めてしまったのだ。
 しかしその人物が辞めたからといって悩みを抱える生徒がいなくなるわけではない。
 なにせ受験生の多くは将来への不安、進学への悩みを日々募らせているのだから。
 事務室には新しいカウンセラーの就任を望む声が届くようになったが、もとより美大生が真似事で始めたカウンセリングだ。
 後任として本職のカウンセラーを雇うには費用が掛りすぎると事務室の悩みの種になり始めていた時、鼎が目を付けられた。
「そういえば折枝さんって大学では臨床心理学を専攻してたんだって? じゃあ生徒達のカウンセリングも出来るんじゃない?」
「いえ、そんな専攻してたってだけで、実際にカウンセリングした経験なんてないですから無理ですよ」
 まるで自信がないといった様子で鼎は首を横に振ったが、上司を始め同僚たちは手っ取り早い問題解決の糸口を見つけたとあって鼎に詰め寄った。
「折枝さんは美人で人当たりもいいからカウンセラー向きだよ。試しにやってみなって」
「そうそう、それにまだ若いからね。生徒たちも年の近いお姉さんに相談すると思えて気が楽だろうしさ」
「事務の仕事が忙しいなら、カウンセラーやってる時間は他の職員で君の仕事を分担するから心配しないで」
 矢継ぎ早にそう言われては断ることも出来ず、なし崩し的に鼎はカウンセラーの仕事を押しつけられてしまった。
 空いていた資料室にソファーやテーブルを持ち込んであっという間にカウンセリングルームなるものまで出来てしまい、鼎は週二日その部屋で悩みを抱えた生徒を相手することになった。
 面倒事を押しつけられた新入社員―――のように見えて、しかし実のところ鼎は心の中では嫌がってはおらず、むしろこんな機会を与えられたことを嬉しく思ってすらいた。
「―――だから、その子と一緒に居るといつも気まずくなっちゃって」
 この日、カウンセリングルームを訪れた女子生徒は成績に差が付き始めて友人との関係が険悪になりつつあるという悩みを鼎に相談していた。
 カウンセラーを始めて三ヶ月も経つとこんな風に相談に訪れる生徒が次第に増え始めていた。
「いっそ距離を置いて相手との関係を考え直して見てもいいかもしれませんね。交友関係の悩みであなたまで成績が落ちてしまったら元も子もないですから」
「私もそう考えてみてるんですけど、距離を置くことで恨まれないか心配で……」
「あなたから聞いた限り、そのお友達はあなたと差がついて焦っているだけです。距離を置けば、恨むよりもあなたに追いつきたくて成績を上げる為に努力し始めると思いますよ?」
 当たり障りなく相手の悩みを軽減させるような方向へと誘導しながら、鼎は何気なく少女へと手を伸ばした。
 しかしその体に手を触れるわけではなく、人差し指と中指でなにかをつまみ出すような動作をごく自然な流れの中で行なう。
 少女は鼎の動きを不審に思うことはなく、自分の悩みを口にしている。
 そして悩みを吐露し終え、鼎からアドバイスを受けるとすっきりした顔でカウンセリングルームを出て行った。
 彼女は鼎のカウンセリングによって心が軽くなった―――そう思っているのだろうが、それは勘違いだ。
 鼎は別段秀でたカウンセリング能力を有しているわけじゃない、角の立たない受け答えをしているだけで問題解決出来ているとは言えない。
 だというのにここを訪れた生徒が部屋を出て行く時に妙にすっきりした顔をしているのには訳がある。
「ふふ……」
 少女が出て行った後のカウンセリングルームで、ソファーに腰掛けている鼎は人差し指と中指の間に挟んでいる一枚の栞を見つめていた。
 その栞の表面にはまるでスマホの画面で動画を再生しているかのように映像が映し出されている。
 しかもその映像は先ほどの少女が幼い頃にやってしまった後悔の思い出だ。
 幼い頃、彼女が川で溺れた際に、飼っていた愛犬が彼女を救う為に川へ飛び込み結果として彼女だけが助かり愛犬は川に流され行方不明になってしまった。
 その時の映像が栞の表面に何度も再生される。
 彼女はその後悔の記憶を常に胸に抱え、その経験をして以来彼女は自分に懐いてくるものに対して、一歩退いて接してしまう、懐かれれば懐かれる程に過去の辛い思い出が心を過ぎり気持ちを入れ込みすぎないよう遠慮してしまう性格になってしまった。
 それは彼女の人間関係にも言えることで、自分に懐いてくる可愛い友達に対してかつての愛犬の姿が重なってしまいどこかよそよそしい態度を取ってしまうことがあった。
 そんな態度は相手にも伝わってしまう為に結果としてとても仲が良かった友人であっても仲違いしてしまう―――なんてことが彼女の人生には頻繁に起こっていたのだ。
 しかし、そんな思いを彼女がすることはもうない。
 なぜなら、彼女の胸にわだかまり続けている後悔は鼎によって抜き取られたのだから。
 鼎が手にしている栞こそ、少女の後悔に他ならない。
「人の不幸は蜜の味というけれど、私はそうは思わないわ。後悔なんて抜き取られて、綺麗さっぱり忘れてしまう方が楽に生きられるもの」
 鼎は手にしていた栞を自分の手帳へと挟んだ。
 手帳には少女から抜き取った栞以外にも無数の栞が挟まっている。
 人の心から後悔を抜き取り栞へと変える―――そんな不思議な力が鼎に備わったのは、幼い頃にひどい高熱を出して生死の境をさまよった時だった。
 それ以来、鼎には他人の心の中にわだかまっている後悔というものがぼんやりとわかるようになった。
 他人とは違うものが自分には見えている。
 そう自覚することはあった鼎だが、見えているといってもひどく曖昧で、それに自分にある日突然特殊な能力が芽生えただなんて鼎には考えられなかったので鼎は自分自身の力の本領とも呼べるべきものから永らく目を逸らしていた。
 彼女が現在のように能力を使えるようになったのには切っ掛けがある。
 それは去年のことだ。
 就職活動中だった大学生の鼎が職場見学の一環として訪れた予備校にて、一人の青年と出会ったのだ。
 自由に予備校内を見学していいと言われていた鼎は一人、予備校の校舎の様子を眺めるように廊下を歩いていた。
 かつて自分も通ったことのある予備校だった為、職場見学というよりは受験生だった頃の思い出が蘇ってきて懐かしい気持ちに浸っていた鼎は小さな教室とも呼べない部屋の前で足を止めた。
 その部屋は鼎が受験生として予備校に通っていた時に、頻繁に足を運んでいた休憩室だった部屋だ。
 当時は受験のプレッシャーから逃れる為に一人でよく休憩室に籠もっていたものだったが、年月が経って再び訪れてみるとそこは休憩室ではなくなっていた。
 今は『進路指導室』のプレートが扉に掛っている。
(進路かぁ……結局、私はなんになりたいんだろう)
 就職活動がうまくいっていない鼎は受験生向けであるはずなのに進路指導の文字に引かれてつい部屋の扉をノックしていた。
 もちろん、真剣に就職に対する悩みを相談しようと思ったわけではない。
 ただ進路指導をしているのはどんな人物なのか、雑談でも交わせれば今の行き詰まった気持ちが少しは軽くなるかもしれない。
 そんな思いから扉をノックし、ドアノブに手をかけた。
 すると中から。
「すまない、相談はもう受けていないんだ」
 優しい声色でそう言われたが、鼎はすでに扉を開けてしまっていた。
「ごめんなさい。勝手に開けてしまって……」
 頭を下げた鼎がちらりと部屋の様子を確かめると、進路指導室の中は妙にさっぱりと片付いていた。
 荷物と呼べるようなものは殆どなく、部屋に備え付けられていたデスクや椅子なんかがあるだけだ。
 まるで引っ越し前のアパートの一室のような光景だ。
「生徒ではなかったのですね。勘違いしてしまってすみません」
 進路指導室に居た白衣のようなコートを纏った青年は、リクルートスーツを着た鼎の姿を見てそう言った。
「いや、あの、元生徒です。今は大学生ですけど」
 妙にとんちんかんな受け答えをしてしまったと鼎は恥ずかしくなった。
 すると青年はくすりと口元に笑みを浮かべた。
「ではOBですか。けれど折角訪問していただいてもこの通り―――僕はもうここを去る人間なので」
「お辞めになるんですか?」
「えぇ。急に海外への留学が決まりまして。今日は荷物の片付けに来ただけなんです」
 それならばこの片付いた部屋の様子も納得だった。
 青年は片付けの最後の仕上げとばかりに壁に飾ってあった少女の描かれた絵画を外している。
 そんな青年の姿を見ていると鼎は無意識に呟いていた。
「―――そんな辛い道を選ばなくても、その子に『すまなかったね』って声をかけてあげるだけで報われる気持ちもあると思います」
 呟いてから鼎ははっと我に返った。
 何故、自分が見ず知らずの青年にずけずけとよくわからない助言めいたことを言っているのかまるでわからない。
 でも確かに自分の言葉だった。操られたとか乗っ取られたとか、そんな感覚ではなく自分の内から出てきた言葉だと鼎は確信できた。
 それだけに奇妙で―――不気味だ。
 はっとした顔で自分の口を押さえている鼎に対して、青年は壁から下ろしていた絵を床に置くとゆっくりと振り返った。
「けれど、そう簡単にもいかないんですよ。すまなかった―――ではすまないようなことを僕はしてしまったんです」
 鼎の唐突な言葉に青年は真っ向から答えた。
 それから青年はすぅと透き通る様な瞳で鼎の鎖骨の辺りを見つめて言葉を続けた。
「こんな風に考えてみたことはありませんか? 後悔とは本に挟まった栞のようなものだ、と」
 自分には他人の後悔が見える―――そのことを言い当てられたような気がして鼎はどきりとしたが、動揺を隠して鼎は言葉を返した。
「栞……ですか? 私にはよくイメージ出来ませんけれど」
「例えばです。思い出というものが一冊の本であるなら、後悔とはその本に挟まりいつまでも残り続ける栞だと僕は思うことがあるんです。楽しい記憶を手に取ってもどうしても後悔の栞が挟まったページを開いてしまう」
「だったらその栞を抜き取ってしまえばいいじゃないですか。栞なんて、本に貼りついてるわけじゃない。ただ挟まっているだけなんですから」
「そうですね。けれど実際に僕らは自分の記憶や後悔を手に取ることも見ることも出来ませんから。本や栞というのは例え話に過ぎません」
 荷物をまとめていたダンボール箱の中から青年は一冊の本を手に取りぱたりと開いた。
 丁度開いたページには栞が挟まっていたようで、青年は人差し指と中指を使って栞をつまみ上げている。
 その一連の動作が、鼎の目にまるで一流の茶人がお茶を点てている時の所作のような惹き付けられるよく練られた静かな動きのように見えた。
「そんな風に人の心から後悔をつまみ出せたら―――誰もが幸せになれるでしょうね」
 そう口走っていた時には、すでに鼎の目には今まで漠然としか見えていなかった他人の心の中の後悔というものが明確な形となって現われていた。
 すなわち栞という形態をとって、具現化されていく。
 そして栞の表面にはその者の後悔の象徴となる光景が写っていた。
 目の前の青年の後悔の栞に写っていたのは美しい少女の姿だった。
 その少女は恐ろしく純粋な笑みを浮かべている。一体彼女のどこが青年に深い後悔を抱かせてしまったのか、鼎は後悔という名の栞を手に取ってよく観察したくなった。
 心の中に残る後悔という栞をつまみ上げる―――。
 今ならば確実にそれが出来る自信が鼎にはあった。
 青年と出会ったたった数分間の内に、鼎の中に眠っていた能力は開花しようとしているのだ。
 鼎は青年に向って一歩踏み出した。
 手が届く範囲にまで近づけば、必ず青年の後悔に手が届く。
 けれど、鼎が青年に近づくよりも先に、プルルルルルルッ―――と青年の胸ポケットから携帯の着信音が響いた。
 青年は鼎にぺこりと軽く頭を下げた後、胸ポケットから携帯を取り出して電話に出た。
「そう―――いや、いいんだ。手入れなんてされてなくても。片付けも僕の方でしておく。人気のない不便な山奥のロッジなんだろ……こちらの条件に当てはまってる、立地はそれで申し分ない」
 なんの話を誰としているのかわからないが、鼎は聞き耳を立てるのも悪いと思ってあえて青年から遠ざかった。
 距離を置いても青年の心に挟まっている後悔の栞に気を取られっぱなしではあったけれど。
 やがて会話を終えた青年は携帯を切って胸ポケットへと戻した。
 そして鼎の顔を見る。
「すみません、そろそろここを出ないといけないので僕は失礼します」
「そうですか……なんだか片付けの途中にお邪魔してすみませんでした」
「いえ、こちらこそ。慌ただしくてすみません。ここでの最後の相談者だっていうのに、中途半端な形になってしまいました」
「いえ、私は別に相談に来た訳じゃ―――」
 と、否定しかけたけれど確かにこの部屋の扉を開ける前は悩みがあったはずだ。
 鼎は就職活動の行き詰まりという、予備校の進路指導室には不釣り合いな悩みを抱えていた。
 けれど青年と話し、自分の中にずっと抱いていた不思議な力の使い方を得た今となっては、就職活動の悩みなんてどうでもよくなっていた。
 だから鼎は荷物の入ったダンボール箱を抱えて部屋を後にしようとしている青年に向って深くお辞儀をした。
「ありがとうございます、話が出来てすっきりしました」
 おそらくこの部屋を訪れた生徒達から何百回も聞かされているであろう言葉だったが、青年は聞き納めとばかりに鼎からの言葉を受け取り軽く頷いた。
「では、僕はこれで」
 そう言って部屋を出て行こうとする青年だったが、扉を開けたところでなにかを思い出したように足を止めた。
「注意してください―――影法師のような死神か、それともイマジネーターか。あなたのような人は、そのどちらとも出会ってはいけない。これは忠告です」
 鼎の方を振り向くこともなく青年はそれだけ言い終えるとさっさと部屋を後にしてしまう。
 取り残された鼎は、なにを言われたのか理解出来ずにただその場に立ち尽くすしかなかった。
 この日の出会いより、鼎は自らの能力の本質を掴み、そして自分の力に名前を付けた。
 アドゥレセンスリグレット―――青春の後悔すら取り除く、折枝鼎の比類無き能力はこうして開花したのだった。

 それから三ヶ月後、鼎は自分の能力を着実に使いこなせるようになり、そして能力を試すのにうってつけのポジションを獲得していた。
 カウンセリングルームでのスクールカウンセラーごっこは、生徒相手に能力を試すことの出来る絶好の機会だ。
 今では相手の心から後悔の栞を抜き出すのも手慣れたものになってきている。
 そしてカウンセリングルームで一人っきりの時、鼎は集めた栞を眺めて一人愉悦の時間に浸る。
 自分はこれだけ多くの若者から後悔を抜き取り、思い出に光りを与えたと思うと心が満たされていく。
 まるで人知れず悪人を成敗している影のヒーローにでもなったかのようだ。
「ふふ……人助けってとても清々しいわ。気付かれないっていうのもなんだか格好いいじゃない?」
 笑みと共にそんな独り言を漏らしていると、部屋の扉がとんとんと叩かれた。
 時間を見れば夕方の六時近くになっている。
 ここでのカウンセリングは六時が最終締めきりになっているので、扉を叩いた相手が今日最後のカウンセリング相手ということになる。
「どうぞ」
 前任者の青年にならって白衣を羽織ると、鼎は尋ねて来た相手を呼び込んだ。
 扉が開き、中に入ってきたのはここには初めて来る生徒であり、事務室に居ても見かけたことがない顔の少年だった。
「ここに来れば悩みが解決するって聞いたんだが」
 部屋に入ってくるなり少年はそう言って鼎の前に立ち、上から下までじろりと鼎の姿を眺めてくる。
「―――あんたが、折枝鼎か? 不思議な力を持ってるそうだな」
 少年―――雨理恋路はまるでナイフでも突き付けるかのように鋭く言い放ち、そして折枝鼎はそれでもまるで動揺しない。
 二人の視線は交差する。
 ゴールデントリクルとアドゥレセンスリグレット。
 二つの奇妙な能力が出会いを果たそうとしていた。


つづく

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