「名言との対話」 4月1日。持永只仁「自分もいつかこんな楽しい美しい作品を」

持永 只仁(もちなが ただひと、1919年3月3日 - 1999年4月1日)は、日本のアニメーション監督、人形アニメーション作家。

芸術映画社でアニメーションの世界に入り、満州映画協会入社後、1945年の日本敗戦後も中国東北部に残留して中国名「方明」でアニメーション映画を製作し続け、中華人民共和国建国後は上海に移動して上海美術映画製作所の前身となるアニメスタジオの設立に携わり、後の中国動画界をリードする多くの人材を育てた。

1953年の帰国後、人形アニメーション映画の製作に関わり、人形映画製作所を率いて『ちびくろ・さんぼのとらたいじ』(1956年)などの名作を送り出した。

持永の人形アニメーションの第一号の弟子となった6歳年下の川本喜八郎には、2013年にオープンした渋谷ヒカリエの8階の「川本喜八郎人形ギャラリー」があるが、「日本のアニメーションの黎明期に、持永先生のような指導者を得た事は、どれほど幸せなことだったか計り知れない」と語っている。

『アニメーションン 日中交流記 持永只仁自伝』(東方書店)を読むと、中国の弟子たちも持永に心酔していることがわかる。「厳しい敬業指針、私心のない人柄・品性と気高い国際主義精神」とその仕事ぶりを語っている。持永本人が弟子たちに語った言葉も記憶されている。「一つの埃でもアニメーションのスクリーン効果に影響する」。「どんなことがあっても、一人でもよいから何でも分かる人材を育てる必要があった」。

日本では「人形アニメの恩人」と呼ばれ、中国では「中国アニメ映画事業の基礎を築いた人」だった。日中両国のアニメ史上に残る人となった。日中両国における人形アニメーションの創始者である持永只仁は、日本アニメーション協会名誉会員であり、中国にはその貢献を称えて「持永只仁賞」「持永只仁奨学金」などが存在している。

持永は中学3年生のときに、京都で「ベンガルの槍騎兵」や、ディズニーの抒情的なカラー短編「蓮池の赤ん坊たち」などのアメリア映画をみて感動する。「そうだ、僕はこのような映画を研究して、こんな作品をつくる仕事がしたい」と決心する。そして「自分もいつかこんな楽しい美しい作品を」という夢が少年の心に刻まれる。

2020年3月30日から始まったNHK連続テレビ小説「エール」の主人公も、小学校時代に触れた父が買ってきたレコードを聴いて感動し、音楽の長い道を歩むことになる。それが生涯で5000曲を作曲した古関裕而である。

いつ誰と出会うか。いつ何と出会うか。人生にける「出会い」の重要性は、古関雄而や持永只仁の例だけでなく、枚挙にいとまがない。夢を抱き、志を立てる。その先には豊かな稔が待っている。 今日の私たちが豊かなアニメの世界を堪能できるのは、持永只仁という開拓者のおかげでもある。感動が人生の道程を決める。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?