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「名言との対話」9月21日。菱田春草「第三の自己考案に縦横の筆を揮うことができ、ここに初めていわゆる自己の画なるものを生じ得べきなのだ」

菱田 春草(ひしだ しゅんそう、1874年明治7年)9月21日[1] - 1911年明治44年9月16日[1])は、明治期日本画家横山大観下村観山とともに岡倉天心(覚三)の門下で、明治期の日本画の革新に貢献した。

長野県飯田市出身。岡倉天心率いる東京美術学校では1期生の横山大観、2期生の下村観山の後輩の3期生として一緒に学ぶ。21歳で卒業する。

1898年、天心の校長辞任に伴い、美校の教師であった大観、観山、春草は、日本美術院の創設に参加した。

1903年に大観とインドにわたる。1904年、天心、大観とアメリカにわらい、ヨーロッパを経て帰国。1906年日本美術院茨城県五浦への移転で、大観、観山らと制作に励むが、眼病に冒される。1911年、36歳で死去。代表作には近代日本画の最高峰の『落葉』がある。春草はかたちではなく、樹林の命を描き出した。この作品で春草は「今光琳」の評価を得ている。

児島孝『近代日本画、産声のときーー天心、大観、春草の挑戦』を読んだ。

横山大観は「春草にして今まで在世してあらんには、僕の絵もモット進んだであろう」と嘆いている」。岡倉天心は「自ら在来の格を破って他を指導する僅少」の人とし、美術界に最も必要なる人物と惜しんでいる。

2006年に五浦(いずら)を訪問した。彼らは木村武山を含め、道場のような生活を送った。この4人が断崖絶壁の上に建った研究所で修行僧のような生活をしている写真が残っている。この地が日本美術再興の地となったのである。

2008年には、東京駅「大丸」で開催されていた「近代日本画 美の系譜 横山大観から高山辰雄まで」という企画展を観る。主となってゐる長野県の水野美術館の水野コレクションは信州飯田出身の菱田春草の作品蒐集に力を入れており32点と全国一のコレクションである。近代日本画をテーマとした水野美術館の所蔵画400点の中から60点を選んで展示する企画展である。水野正幸氏は、ホクト株式会社会長の実業家で、「日本画の醸し出す奥深い世界に魅かれ、仕事の合間にあちこちの美術館を巡り歩くうちに、この素晴らしさを多くの方々と共有できないものだろうかと考えるようになりました」と美術館創立の事情を語っていた。

春草は金のために、身を屈することをしなかった。製作はするが製造はしなかった。またいわゆるなぐり物もなかった。

「第三の自己考案に縦横の筆を揮うことができ、ここに初めていわゆる自己の画なるものを生じ得べきなのだ」と「古画の研究」で語っている。第一は古画の研究、第二は写実の研究、そういった研鑽と準備ののちに、第三が完成すると考えていた。下村観山について春草は「全然独創的に新領域を開拓する人ではないやうである。前人の既に着手した跡を訪ねて、それに自家の意趣を加えて画を作る人である」と観察している。春草は第三にこだわった画家であった。しかし、この天才には完成までの時間は与えられなかった。横山大観が90歳の長寿であっのとは対照的である。こういう人天才に「夭折」という言葉がふわさわしい。


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