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12月22日。加藤シズエ「1日10回感動すること。それが長生きの秘訣です」

加藤 シヅエ(かとう シヅエ、旧姓:広田、本名:静枝、1897年(明治30年)3月2日 - 2001年(平成13年)12月22日)は、日本の婦人解放運動家・政治家。

東京の富裕な実業家の娘。女子学習院中等科卒業後、石本恵吉男爵と結婚。石本は三井三池炭鉱に赴任し悲惨な労働者の実態をみる。2人の幼子を残しアメリカに渡った夫を追い渡米。産児調整運動のマーガレット・サンガーと出会い、日本での運動を決意し、日本での産児調節運動をスタートさせ、日本産児調節婦人同盟を設立し会長に就任。夫は満州で音信不通になり離婚。「火の玉勘十」と呼ばれた労働運動の加藤勘十と結婚。48歳で長女多喜子を出産。1946年の衆議院選挙で初当選し、日本社会党に入党。優生保護法を成立させる。1950年参議院議員に当選し、1974年の引退まで参議院議員であった。成田空港反対闘争にも参加。2001年死去、享年104。

『百歳人、加藤シヅエ 生きる』(NHK出版)が日本エッセイストクラブ特別賞。若月俊一賞。東京都名誉都民。 

「いったん口にしたことは必ず実行するのが母のやり方だ」とみていた娘の加藤タキは、『加藤シヅエ 104歳の人生』(加藤シヅエ・加藤タキ)で97歳で新進党結党大会で演説するなど、100歳を超えても健康で、テレビや雑誌にひっぱりだこになった、と語っている。加藤タキは友人の渡辺幸弘さんのパーティで一度お見かけしたことがある。

「毎日をつつがなく歩み続けていたら、自然と100年がたってしまった」「健康な思考力をもって生きていれば、いくつになろうと関係なく、日々何かを学んだり感じたりしながら、生き続けていくことができる」「何か使命感を持つこと。、、老いの痛みにどうにか耐えていくことができる」

102歳でガンの手術をする。見舞いに来た日野原重明先生から「この病院(国立がんセンター)はじまって以来、最高齢の方の手術が、こんなにうまくいって、本当によかった」と手を握って喜んでくれたそうだ。

新渡戸稲造『武士道ー日本魂』がで社会問題に目を開かれた、センテナリアン・加藤シヅエの遺言は、「 もう一度、品位のある信頼される日本人に、日本になってもらいたい」だった。現代を進歩と無気力の時代ととらえ、知的進歩とともに日本の道義的成長を願ったのだ。

生活の中の小さなことの中にも、感動の種はたくさんあるとし、頭と心をフル回転させた聖なる生涯であった。


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