3月31日。横井庄一「恥ずかしながら、生きながらえて帰ってまいりました」

横井 庄一(よこい しょういち、1915年3月31日 - 1997年9月22日)は、日本の陸軍軍人、評論家。最終階級は陸軍軍曹、栄典は勲七等青色桐葉章。

アメリカ領グアムで敗戦を知らずに28年間の逃亡生活後、1972年1月24日にグアム島で島民に発見される。その時、56歳。2月2日グアム島から東京へ。4月25日帰郷。11月3日結婚、57歳。1997年永眠。享年82歳。横井さんは私の大学生時代に大ニュースとなった伝説の人物だ。

横井さんのお母さんは、ずっと「庄一は生きている」と言っていたそうだが、帰国する13年前に亡くなっっている。母の言葉が正しかったわけだ。名古屋の記念館は、25年ほど住んだ自宅の一階の二間である。館長は12歳年下の妻の美保子さん。品の良い奥様は1927年生まれだから私の母と同じ年である。奥様の美保子さんは「六十路越え喜寿も米寿もなんのその白寿も迎えて尚生きたまへ」という歌を詠んでいる。

28年間の逃亡生活を続けられたのはなぜか。捕虜になれば国に不忠、死ねば親に不忠となる。どちらも大事だから、自分の力で生きていけばいいと横井軍曹は考えたのである。1m50cmほどの深さ、幅は4m50cの穴倉での想像を絶する生活を支えたのは、手先の器用さと聡明さ、そして生き抜くという意志だったと思う。機織り機、ボタン、針、など生活上のあらゆるモノを作りだしていることに感動を覚えた。

「私はこれから、失われた日本人の心を探し求めたいと思います。、、勤勉な心を失った国民が本当に繫栄したためしはありません。、、食糧の大半を輸入に頼っているようでは独立国家と申せません。、、、子が親を大切にしないような教育、生徒が先生を尊敬しないような教育などあってたまるもんですか。そんなものがあれば、それは教育と言えません。」

戦争時に国に忠を尽くした横井庄一の目には、戦後日本は「国あって、国なし」とみえた。横井庄一は、国とは何か、重い課題を日本に突きつけている。

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