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「名言との対話」10月13日。川路利良「大義の前には私情を捨ててあくまで警察に献身する」

川路 利良 (かわじ としよし、 天保 5年 5月11日 ( 1834年 6月17日 ) - 明治 12年( 1879年 ) 10月13日 )は、警察官僚

鹿児島市出身。漢学、剣術、を学ぶ。島津斉彬のお供として江戸に行き、薩摩と江戸をつなぐ斥候役を果たした。

1864年禁門の変長州藩遊撃隊総督の来島又兵衛を倒す。西洋兵学を学ぶ。1868年、鳥羽・伏見の戦いで薩摩官軍の大隊長でとして、上野の彰義隊潰走の糸口をつくる。東北に転戦。藩の兵器奉行に昇進。

明治維新後、西郷の招きで上京し、司法省の欧州視察団の一員として警察制度を視察する。帰国後フランスに範をとった警察制度の確立を目指した。1874年、警視庁創設に伴い40歳で初代大警視(警視総監)に就任。

明治6年の政変で西郷が下野した。川路は政府に残り仕事に邁進し、大久保利通の厚い信任を得る。不穏な動きのあった薩摩に警察官を送り込むが、捕らえられ、川路が西郷の暗殺を指示したという自白書がとられた。この間のことは司馬遼太郎の小説で詳しく私は読んでいる。

1878年に酒乱で有名な黒田清隆の妻が急死した際、川路は墓をあけて、病死であることを確認している。こういった事件で登場しているのだが、今回初めて川路利良という人物に焦点をあてることで初めてこの人物のことを知った。

川路には、戊辰戦争の時の股間を狙撃された「川路のキンタマ」や、欧州視察中の「大便放擲事件」などの豪快なエピソードがある。

川路は鹿児島では、大久保と同様に、裏切り者の印象を持たれていて憎まれている。しかし「私情においてはまことに忍びないが、国家行政の活動は、一日として休むことは許されない。大義の前には私情を捨ててあくまで警察に献身する」と表明して警察行政に邁進したことは再評価されるべきだろう。西郷に殉じた者、政府に残った者、それぞれが己の価値観に従って選択し、人生最大の決断をしたのだろう。

幕臣から新政府にも入り、福沢らから批判を受けて「行蔵は我に存す」とした勝海舟など、変革期には、出処進退が問われる。そこにその人の人物の姿があらわれる。。どちらが正解かということではない。

「警察官の心は、人々を慈しみ、助けるということに尽きる。この心を以ってする警察権の発動も、また仁愛なのである」という川路は「日本警察の父」と呼ばれる大事業を実現した。川路の警察語録は、今なお警察官のバイブルとなっている。

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