3月7日。黒岩重吾「阿騎野の朝に志を立つ」

黒岩 重吾(くろいわ じゅうご、1924年2月25日 - 2003年3月7日)は小説家。黒岩重吾は、同志社在学中に学徒出陣で北満州に出征する。敗戦の逃避行で朝鮮経由で内地に帰還。復学後、株で儲けて酒色に溺れるが、ある日全身麻痺に襲われて3年間の入院生活を送る。「書く以外に生きる方法はない」と決心する。1961年に釜ヶ崎(あいりん地区)でのドヤ街を舞台にした『背徳のメス』で直木賞を受賞。その後、あらゆる注文を引き受け、月間700ー800枚を書いた。1970年代後半の50代からは古代を舞台に歴史小説を書いた。1980年に『天の川の太陽』で吉川英治文学賞を受賞。1992年には一連の作品により菊池寛賞を受賞。『中大兄王子伝』『日の影の王子 聖徳太子』『白鳥の王子 ヤマトタケル』『紅蓮の女王』『茜に燃ゆ』などの作品がある。

文壇での地位が固まってからは、文学賞の選考委員をつとめている。直木賞選考委員として、1984年上半期から2002年下半期まで。吉川英治文学賞選考委員として、1990年から2003年まで。柴田錬三郎賞選考委員として、1988年から2002年まで。

2014年に神奈川近代文学館で開催された「黒岩重吾展」をみた。「私は、人間の生につながるセックス、金銭欲、権力欲、等の飽くなき欲望を、えぐりにえぐり、人生とは何?を酷烈に自問自答させたい」と小説を書く動機を語っている。また「生きることを苦しく思う時、思い切り生きたい」とも言う。苦しいからこそ逆に生きぬこうというのだ。

以下は、阪神淡路震災に兵庫県西宮市の自宅で遭った70歳の時の言葉。「古代ローマの昔から、人間は自分とは無関係な人間が血を流すことに昂奮して来た。これは、人間の内部にゴッドと共に棲(す)むデーモンの欲求があるからである。必要なのは、何処までデーモンを抑え込むかであろう。それが不可能でも、最低限、デーモンを憎む気持ちだけは持たねばならない。現代人に必要な人間の証はそこにある」

「阿騎野の朝に志を立つ」は、柿本人麻呂が「東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の 立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ」と詠んだ阿騎野で古代を舞台に歴史小説を書くことを決心した立志の言葉である。古代史の舞台となった場所で生まれ育ち、百舌鳥古墳群の近くで遊んでおり、中学では飛鳥を中心にして古墳を利用した軍事練習をしており、古代史の舞台には馴染みがあった。その地で黒岩重吾の志が立った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?