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「名言との対話」6月23日。岸田隆生「醒めよ、吾が冷き理性、醒めよ、吾が、強き意力、常に爾(なんじ)を欺(あざむ)きて、眠らせんとする、卑屈なる吾を鞭打て、吾は弱し、されど、吾は、吾自ら進まざる可らず。醒めよ!常に醒めよ!」

岸田 劉生(きしだ りゅうせい、男性、1891年明治24年〉6月23日 - 1929年昭和4年〉12月20日)は、大正から昭和初期の洋画家。父親は新聞記者実業家岸田吟香

劉生は15人兄弟の第9子の四男。画家として著名。この人も何をやっても一流だった。落語もうまく、打ち込んだら真打ちという腕前。1851年生まれで1929年に38歳で没。

「摘録・劉生日記」(岸田劉生著・酒井忠康編:岩波文庫)を読了。38歳で亡くなった岸田劉生の30歳の正月から5年間の毎日の日記である。この人の全集は全十巻なのだが、二期は全五巻であるから、文章もうまかった画家の代表書籍といってもよい。自分が描いた挿絵もうまい。友人たちと自宅に作った土俵でよく相撲をとっている。武者小路実篤木村荘八志賀直哉梅原龍三郎中川一政山本鼎倉田百三、など同時代の友人たちの名前が頻繁に登場する。娘の麗子ことの記述も多い。代表作品「麗子像」のモデルである。

関東大震災の様子の記述も生々しい。「ああ何たる事かと胸もはりさけるようである。家はもうその時はひどくかしいでしまった。もう鵠沼にもいられないと思ったが、これでは東京も駄目か、、、、。つなみの不安でともかくも海岸から遠いところへ逃れようと、、、」

  • 全力を尽くさなくてはならぬ、芸術の神の前にのみ自らの画を見せることを思え。

  • 他人に何と思われても自分は自分の仕事の世界をのこせばこれ以上の誇りはない。

「これからずっと続けたく思う。一冊、一年中の事がこの日記に記されたら不思議な味の本になる。」と日記を書く事にした決心を語っている。その通りの味のある本に結実している。

「一見して人の心をうつものをかきたい。深い力で、そして見れば見る程深いものを。これが自分の為す可き仕事であり道である、、」(岸田劉生

愛娘・麗子の5歳から16歳まで膨大な作品群を描き続けた天才画家・岸田劉生は、人生遍歴を重ねながらとうとう、自分の歩むべき道を発見した。立派な芸術作品をみるとシーンという感じになることがあるが、一ヶ月半を費やした労作である有名な麗子座像は、岸田の気迫がひしひしと伝わってくるそのような作品である。為すべき仕事を為す、これが歩むべき道である。

因みに、父の岸田吟香の生涯も興味深い。2014-03-18 に世田谷美術館で、岸田吟香岸田劉生、岸田麗子という三代の芸術家一家の歴史を追う企画展をみた。吟香は1833年岡山県うまれ。昌平坂学問所で学んだ尊皇攘夷の志士。1850年代は、ヘボンの和英辞書編纂を手伝う。日本発の民間新聞を刊行。1870年代。東京日日新聞主筆。日本最初の従軍記者として台湾取材。明治天皇巡行に随行。目薬を扱う楽善堂を創業。1880年代。訓盲院を開校。1890年代には 中国、朝鮮の地図を編集。日本薬学会や全国薬事業組合の要職。1905年、72歳で没。

なんと目まぐるしい人生か。左官、泥工、八百屋の荷担、湯屋の三助、芸者の箱丁、妓楼の主人、茶飯屋の亭主、骨董屋まがいの商売、、と「ままよの銀次」となる。銀公が変じて吟香となった。横浜で企業家となり、江戸横浜の定期航路、北海道函館での氷製造販売、越後での石油採掘、などを経て、ヘボン直伝の液体目薬の製造販売で成功。
180センチ、90キロの巨漢。絵を描き、書もうまく、実業もできる。わが国発といわれる形容がつく事業が多いのが特徴だ。「維新諸行 翁実唱始」の人。
「本格的和英辞書」「博覧会批評」「従軍記者」「記者としての天皇巡行随行」「芸術家への海外留学支援」「中国地誌図」「東亜同文書院」「盲学校」、、、。すべて初物である。画家の高橋由一、写真の下岡蓮杖、浮世絵画家の小林清親田崎草雲など友人も多い。東京日日新聞では、本名福地源一郎の桜痴の論説と吟香の雑報が二枚看板だった。才能を撒き散らしたところなど、この二人はよく似ている。時勢に応じて立ち位置を少しづつ変化させるなど、先見の明と巧みな処世術だった。


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