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「名言との対話」11月30日。安川敬一郎「世界平和」

安川 敬一郎(やすかわ けいいちろう、嘉永2年4月17日1849年5月9日) - 昭和9年(1934年11月30日[1])は日本武士福岡藩士)、戦前実業家政治家炭鉱で財を成した筑豊御三家のひとつ。貴族院議員、衆議院議員大正9年1920年1月13日男爵授爵。安川財閥創始者。明治専門学校(九州工業大学)の創立者

福岡出身。亀井昭陽の学問を継ぐ儒学者の家に生まれ、16歳で婿養子として安川家の家督を相続しし、敬一郎と名乗る。修猷館に学ぶ。京都、静岡、東京に留学。慶応義塾に入学するが、兄・幾島徳の佐賀の乱での戦死で帰郷し学業を断念し、幾島の事業であった炭鉱経営に着手する。

1893年、次男・松本健次郎と安川松本商店を設立。

1881年玄洋社の創立時から社員となり、炭鉱経営から得た資金で玄洋社の活動を指せる。辛亥革命に際して孫文を東京の隣家を隠れ家とし4年間援助した。

1907年、明治専門学校を設立し、2年後に開校した。1914年、衆議院議員。1918年にかけて、明治紡績安川電機、九州製鋼(後の八幡製鉄、日本製鉄)を設立。1922年に経済から引退。男爵となる。1924年貴族院議員。

安川敬一郎の息子たちも事業家として大をなしている。

次男の松本健次郎(1870-1963年)は敬一郎の兄・松本潜の娘婿。安川松本商店を創設し、炭鉱経営,石炭販売をおこなう。明治鉱業社長。のち石炭鉱業連合会会長、日本石炭社長、石炭統制会会長、貴族院議員。戦後は日本経済連盟会会長などをつとめた。

五男の安川大五郎(1886年-1976年)は安川電機の創業社長。松本健次郎の兄。名経営者であった第五郎は、安川電機の創業だけでなく、財界、官界にも引っ張り出されれて、石炭庁長官、九州電力会長、九州経団連会長なども含め、数多くの公職をこなしている。1964年の東京オリンピック組織委員会会長をつとめた。前日夜半の雨があがり開会式は晴天となる。それ以来、大五郎は「至誠通天」(至誠天に通ず)を揮毫するようになった。

安川敬一郎は1913年、反袁世凱を掲げて日本に亡命した中華民国の前臨時総統・孫文を、戸畑の明治専門学校に迎えた。このとき、「国父」と呼ばれるにいたった孫文は返礼として「世界平和」の書を敬一郎に贈った。この書には「安川先生」と書かれている。当時、孫文は46歳、敬一郎は65歳だった。敬一郎は「事業だけで満足せず国家社会に尽くす」という姿勢を持っていたこともあり、孫文は「世界平和」という言葉を選んだのではないだるか。現在、この扁額(レプリカ。本物は「北九州市いのちのたび博物館「自然史・歴史博物館に収蔵)は安川電機歴史館に入口の壁面に展示されている。

国家社会を視野に置く姿勢は、「明専」と呼ばれた技術者養成学校を設立した自分自身だけでなく、松本健次郎や、安川第五郎などの息子たちが大きな公的な仕事を行ったことに納得する。孫文はその志を「世界平和」という書であらわしたのである。


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