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「名言との対話」1月27日。矢内原忠雄「立身出世や自分の幸福のことばかり考えずに、助けを求めている人々のところに行って頂きたい」

矢内原 忠雄(やないはら ただお、1893年〈明治26年〉1月27日 - 1961年〈昭和36年〉12月25日)は、日本の経済学者・植民政策学者。

愛媛県今治市生まれ。東大学卒業。住友総本店に入社した。1920年、国際連盟事務次長として転出した新渡戸稲造の後任として経済学部助教授に就任。欧米留学後、教授となり植民政策を講じた。 『中央公論』に発表した論文「国家の理想」の反軍・反戦思想が問題となり大学を辞職。第2次世界大戦後の 1945年 11月大内兵衛らとともに母校に復帰した。経済学部長、教養学部長を経て2期6年にわたり東大学総長をつとめる。学生時代より内村鑑三に私淑し、無教会主義キリスト教の指導者として聖書研究会、雑誌『嘉信』などを通じて平和を説き続けた。主著は『帝国主義下の台湾』 (1937) 、『南洋群島の研究』 (1935) 。死後『矢内原忠雄全集』 (29巻,1963~65) が刊行された。 (参考:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

矢内原忠雄『余の尊敬する人物』(岩波新書)を読んだ。BC7世紀のユダヤ人の預言者・エレミア、日蓮、リンコーン、新渡戸稲造に4人を紹介している。

私は日蓮の部を興味を持って詳しく読んだ。外国の侵入と国内の内乱を阻止するために、釈尊を忘れて阿弥陀仏を拝む浄土教を始めとする既成仏教を排撃し、正教の法華経に戻せと主張する。それが有名な『立正安国論』の主旨だ。執権の北条は日蓮を憎み、伊豆の伊東の川奈に捨てる流罪とする。それから9年後に蒙古からの使者がくる。鎌倉に呼びだされ激烈な言を吐き、死罪となるが、天地が鳴動し斬れない。次には50歳で佐渡に流され雪の中に捨てられる。日蓮は自己の使命を疑い、確信するという過程も告白している。そこに矢内原は共感する。日蓮は日本の柱、眼目、大船となろうという志を持ち続け、二度にわたる蒙古の来寇を予言した。日蓮は経文にあることのみ、その正法である真理を語った人である。

戦前に思想弾圧で東大を追われた経験のある矢内原は、日蓮の生涯に同情し、共感し、勇気をもらったのだろう。

それぞれの事績の紹介のあとに、「性格」という項目を設けて4人の偉人を論じていることに注目したい。エレミアは柔和、素直、純な人間、偽りのない人。リンコーンは、優しく、平明に、正しく、確固とした人。人はその人の性格にふさわしい生涯を送ると思っている私は、矢内原の「性格」論にも共感した。

また、エレミアと新渡戸については「晩年」という項目を設けて語っている。この岩波新書を書いたのは47歳。人生50年という言葉が重かった時代に、自身の晩年の過ごし方の参考にしようとしたのであろう。

新渡戸論の最後は「博士の残した精神こそ日本国民の最も必要とするところでありませう」である。日蓮論の最後は「長いものには巻かれろ」という思想的奴隷ではなく、真理を愛し畏む思想として日蓮という人物が日本にいたことは、私共の慰めであります」。日本と日本人へ向けてのメッセージを強く意識していたのだろう。

「人生というものは、人を従えることが成功のように思われがちでありますけれども、実はそうではなく、人に仕えることが人生の意味である」(1961年。NHK「子供のために」)。「立身出世や自分の幸福のことばかり考えずに、助けを求めている人々のところに行って頂きたい」(1961年。北大生への講演)。以上の言葉はキリスト者らしい言葉だ。「助けを求める人を助けよ」、は北海道大学で「内村鑑三とシュヴァイツァー」という演目で学生たちに語った教育者、キリスト者としての言葉である。こういう人がいたことにも、励まされる思いがする。琉球大学附属図書館には、「矢内原忠雄文庫」がある。

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