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12月27日。若狭得治「麒麟おおとりと遊ぶ」

若狭 得治(わかさ とくじ、1914年(大正3年)11月19日- 2005年(平成17年)12月27日)は、日本の運輸官僚、実業家。全日本空輸社長、会長、名誉会長を歴任した。

1938年に大学を卒業後、逓信省(現運輸省)に入省。運輸省海運総局日本海事務局輸送課長、大臣官房企画課長、神戸海運局長、灯台部長、海運局長などを経て、1965年、運輸事務次官となる。運輸官僚として海運再編、国鉄運賃値上げ問題の処理、船員ストの調停など戦後の難問題を担当したほか、日米航空協定の改定、日ソ航空協定の締結、新成田空港公団の設立などに功績を残し、1967年に退任。
1969年、全日空顧問として招聘され、1970年大庭哲夫の後任として社長に就任すると、全日空の国際線チャーター便進出を実現させ、またホテル事業を展開するなど経営の多角化をはかり「全日空中興の祖」と呼ばれた。しかし、1976年に新型ジェット旅客機の選定をめぐり「ロッキード事件」が発覚。贈賄罪での起訴は時効により見送られたが、外国為替管理法違反、議院証言法違反で逮捕起訴され、1992年最高裁判所で懲役3年、執行猶予5年の有罪判決。その後も長く日本航空業界の実力者として活躍。1976年全日空会長、1991年名誉会長、1996年日本航空協会会長。1997年相談役に退き、1998年より常勤顧問となる。2005年肺炎により都内の病院で死去。享年91。

私は1973年から1997年まで日本航空で仕事をしたから、若狭得治の辣腕ぶりはよく知っている。今回、改めて『麒麟おおとりと遊ぶ』(本所次郎)を読んで、ロッキード事件で社長以下の幹部がつかまった時には「拘置所に本社を移した全日空」との川柳が新聞に載ったように混乱した全日空の社内事情とそこから見える航空界の動きを知った。

松永安左エ門は「大病、監獄、浪人」を経験すると大人物になると語っていたが、若狭は大病と監獄を経験し、大きな存在になっていく。しかし若狭は後継者に恵まれなかった。中村大造、近藤秋男、杉浦喬也、そして普勝清治には「3期6年社長、会長6年。3期目には後継者含みの副社長を指名」を指示したが、トップ人事は迷走を続ける。財界は、私心がない若狭をシンボルとしてとどまるべきであるとして、本人は不本意であったが、社長退任後も、会長、名誉会長と、いつまでも役職に居ざるを得なかったのだ。

「麟(馬編!)おおとりと遊ぶ」は、若狭が色紙に書く言葉であり、若狭の評伝のタイトルにもなっている。麒麟は千里を走る名馬であり、転じて傑出した人物を指す。おおとりは、鳳凰のことで中国神話の伝説の霊鳥である。名馬が霊鳥と遊ぶという雄大、荘厳な景色を示している。名馬である贈った人にそうあれという意味なのだが、それは若狭自身の生き方のようでもある。

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