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「名言との対話」12月16日。近衛文麿「自分は何も残せなかったなあ」

近衛 文麿(このえ ふみまろ、旧字体: 近󠄁衞 文󠄁麿󠄁1891年明治24年〉10月12日 - 1945年昭和20年〉12月16日)は、日本政治家

東京出身。京都帝大法科卒。1916年、25歳で貴族院議員。1933年貴族院議長。1937年組閣。1940年第二次内閣を組閣。大政翼賛会を設立し、日独伊三国同盟を締結。他方、日米衝突回避に努力したが失敗。第三次内閣総辞職後、日米開戦に至る。戦後、内大臣府御用掛として憲法改正調査に着手したが、A級戦犯指定を受けて服毒自殺。

近衛文麿五摂家筆頭という家柄、一高から東京と京都の二つの帝大で学んだ高学歴、180センチを超す貴公子然とした風貌、英米協調外交に反対する主張などで、高い人気があった。その国民的人気を背景に、日中戦争大東亜戦争に突き進む時代に3度にわたり首相をつとめた政治家である。

園遊会ヒトラーの仮装をしていたという近衛文麿はどのような人で、どのような見識を持っていた人なのか。多くの人の証言を拾ってみたい。

  • 石原莞爾「この危機に優柔不断では、日本を亡ぼす者は近衛である」

  • 重光葵「戦争責任容疑者の態度はいずれも醜悪である。近衛公の如きは格別であるが、、」

  • 昭和天皇「近衛は自分にだけ都合の良いことを言っているね」

  • 木戸幸一「いざというときのふんばりがたりない。そこでいつも困ったんだ」

  • 東郷重徳「薄志且矛盾に富たる性格は、結局政治家として失敗せしものなり」

  • 近衛秀麿(弟)は、「兄は政治家にまったく向いていなかった」

海軍大将の井上成美は「軍人にしたら、大佐どまりほどの頭も無い男で、よく総理大臣が勤まるものだと思った。言うことがあっちにいったりこっちにいったり、味のよくわからない五目飯のような政治家だった」と辛らつだった。「大佐どまりほどの頭も無い男」が、政権を担って、日本を亡ぼしたということになる。

「自分は何も残せなかったなあ」とは、戦犯に指定された後に、弟の秀麿に語った言葉である。この感慨も甘すぎる。壊滅した日本を残したのだ。戦犯容疑者の態度は醜悪であり、その中でも近衛は目立っていた。国家の命運を託した人物が、このような気の弱い、勇気に欠けた人物だったとは、驚いた。そして現在の日本はどうだろうと思ってしまった。

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