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1月22日。安部公房「通路の掘り進め方にはコツがある。自分の方から掘ってもだめなんだ。相手の方から掘り進めないと」

安部 公房 (あべ こうぼう、1924年 (大正13年) 3月7日 - 1993年 (平成5年) 1月22日) は、日本の小説家、劇作家、演出家。

母は公房の養育に熱心で文学理論を伝えた。恩師は2人いる。小学校の宮武城吉先生は読書指導に力を入れ年間1人平均80冊を読ませた。もう一人は成城高校のドイツ語教師・阿部六郎先生。数学の天才だった公房は東京帝大医学部に進んだが、医者にはならずに文学者になった。

1962年 、昆虫採集の途次に迷い込んだ村に閉じ込められ、そこから脱出を図ろうとする教師とそれを阻もうとする村人を描いた『砂の女』を発表、世界30数か国語に翻訳された。私はこの本を読み、映画も観ている。『燃えつきた地図』はニューヨーク・タイムズの外国文学ベスト5に選ばれている。 主な受賞は、戦後文学賞 (1950年)、芥川龍之介賞 (1951年)、岸田演劇賞 (1958年)、読売文学賞 (1963年・1975年)、谷崎潤一郎賞 (1967年)、フランス最優秀外国文学賞 (1968年)、芸術選奨 (1972年) など。

安部公房は 日本人作家については、大江健三郎と安岡章太郎のみを評価していた。井上靖を「物語作家」、井伏鱒二を「随筆作家」と罵倒していたそうだ。三島由紀夫らとともに第二次戦後派の作家とされた。友人の大江健三郎によれば「全集」を全部読んで面白いのは漱石と公房だという。「急死しなければ、ノーベル文学賞を受けていたでしょう。非常に、非常に近かった」とノーベル賞関係者が後に語っている。

公房はアウトドア・スポーツが好きで、カメラマニアでもあった。また一番最初にワープロを使って原稿を書いた小説家であり、この文豪はNECのワープロ『文豪』の開発に関わった。日本でシンセサイザーを所有していたのは安部のほか冨田勲とNHK電子音楽スタジオを数えるのみだった。戯曲を俳優座に書き下ろしていた公房は堤清二をスポンサーとして演劇集団「安部スタジオ」をつくる。妻と不仲になって独人住んだ芦ノ湖を見下ろす箱根の自宅での60歳頃の写真では、シンセサイザー、イカ釣り用ランプなどに囲まれてご機嫌の笑顔をみせている。簡易現像セット、小型テープレコーダーなども使っていた。興味の幅が広い人であった。

1992年 執筆中に脳内出血で東海大学病院に入院。経過良好で退院したが、自宅療養中にインフルエンザを発症し、1月20日に多摩市の日本医科大学多摩永山病院に入院し、死去。公房1993年1月22日没、妻・真知1993年9月22日没。2013年に、女優の山口果林が自身のエッセイ『安部公房とわたし』で、安部との20年以上に亘る愛人関係を公表した。このニュースに驚いたことがある。

安部公房は文学を他者との通路と考えていた。満州奉天の少年時代に商売もうまかった公房が得た相手から考えるという商売のコツは、小説にも通じていたのである。
















安部 公房 (あべ こうぼう、1924年 (大正13年) 3月7日 - 1993年 (平成5年) 1月22日) は、日本の小説家、劇作家、演出家。

母は公房の養育に熱心で文学理論を伝えた。恩師は2人いる。小学校の宮武城吉先生は読書指導に力を入れ年間1人平均80冊を読ませた。成城高校のドイツ語教師・阿部六郎先生申し訳ない恩師である。数学の天才だった公房は東京帝大医学部に進んだが、医者にはならずに文学者になった。

1962年 、昆虫採集の途次に迷い込んだ村に閉じ込められ、そこから脱出を図ろうとする教師とそれを阻もうとする村人を描いた『砂の女』を発表、世界30数か国語に翻訳された。私はこの本を読み、映画も観ている。『燃えつきた地図』はニューヨーク・タイムズの外国文学ベスト5に選ばれている。 主な受賞は、戦後文学賞 (1950年)、芥川龍之介賞 (1951年)、岸田演劇賞 (1958年)、読売文学賞 (1963年・1975年)、谷崎潤一郎賞 (1967年)、フランス最優秀外国文学賞 (1968年)、芸術選奨 (1972年) など。

安部公房は 日本人作家については、大江健三郎や安岡章太郎のみを評価していた。井上靖を「物語作家」、井伏鱒二を「随筆作家」と罵倒していたそうだ。三島由紀夫らとともに第二次戦後派の作家とされた。友人の大江健三郎によれば「全集」を全部読んで面白いのは漱石と公房だという。「急死しなければ、ノーベル文学賞を受けていたでしょう。非常に、非常に近かった」とノーベル賞関係者が後に語っている。

公房はアウトドア・スポーツが好きで、カメラマニアでもあった。また一番最初にワープロを使って原稿を書いた小説家であり、この文豪はNECのワープロ『文豪』の開発に関わった。日本でシンセサイザーを所有していたのは安部のほか冨田勲とNHK電子音楽スタジオを数えるのみだった。戯曲を俳優座に書き下ろしていた公房は堤清二をスポンサーとして演劇集団「安部スタジオ」をつくる。妻と不仲になって独人住んだ芦ノ湖を見下ろす箱根の自宅での60歳頃の写真では、シンセサイザー、イカ釣り用ランプなどに囲まれてご機嫌の笑顔をみせている。簡易現像セット、小型テープレコーダーなども使っていた。興味の幅が広い人であった。

1992年 執筆中に脳内出血で東海大学病院に入院。経過良好で退院したが、自宅療養中にインフルエンザを発症し、1月20日に多摩市の日本医科大学多摩永山病院に入院し、死去。公房1993年1月22日没、妻・真知1993年9月22日没。2013年に、女優の山口果林が自身のエッセイ『安部公房とわたし』で、安部との20年以上に亘る愛人関係を公表した。このニュースに驚いたことがある。

安部公房は文学を他者との通路と考えていた。満州奉天の少年時代に商売もうまかった公房が得た相手から考えるという商売のコツは、小説にも通じていたのである。

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