3月14日。島津斉彬「西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も人なり、くじけずに研究せよ」

島津斉彬(1809年〜1858年は)江戸時代後期から幕末の外様大名で、薩摩藩の第11代藩主。西洋事情に明るく進取の気性に富み、大規模な藩政改革を実施。集成館を興し、反射炉、ガラス工場、洋式紡績所などを設置。西洋式軍艦・昇平丸を幕府に献上した。将軍後継問題では一橋派に属し、井伊直弼と対立。享年50歳。

40歳を過ぎても部屋住みであったが、密貿易のデータを幕閣に渡すという非常手段に訴えて藩主のポストを奪取。「勇断なき人は事を為すこと能はず」と言った斉彬は、卒兵上京を控えて洋式兵法の訓練中、父・斉興の密命で毒殺される。藩主となってわずか10年であった。

斉彬は洋物への異常な好奇心と研究心があり、ダゲール法の写真機をオランダから買い、自分の娘を撮影した。これが日本人の手になる最初の写真であった。

斉彬は無名の青年を重用ポストに登用した。その青年が後の西郷隆盛である。

冒頭の言葉は薩摩藩が反射炉建設にあたって言ったとされる言葉である。人ができたことは、自分たちにできないはずはない。こういって部下を激励し、そこで培った勢力が明治維新を断行した。「君主は愛憎で人を判断してはならない」とも言ったのだが、そのため薩摩藩は多くの人材を維新と明治時代に供給できたのである。

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