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「名言との対話」5月11日。中西太「何苦礎(ナニクソ)」

中西 太(なかにし ふとし、1933年4月11日- 2023年5月11日)は、プロ野球選手内野手)・コーチ監督解説者評論家。享年90。

香川県高松市出身。高松第一高等学校時代から豪打で「怪童」とよばれた。1951年の夏の甲子園大会では準決勝に進出した。翌1952年に西鉄ライオンズに入団して新人王に選ばれた。1953年はホームラン36本、86打点で二冠王となり、打率3割1分4厘に加え、36盗塁もマークし、史上3人目の「3割30本30盗塁」を達成した。

1954年は本塁打王、1957年は打点王のみに終わったが、1955年と1958年は首位打者本塁打王、1956年は本塁打王打点王となった。入団7年目で計4回も二冠王となった。水原巨人を3年連続破った三原監督率いる西鉄黄金時代の豪打瞬足の4番打者である。

1959年以降は右手首の故障により代打出場が多くなり、1962年からは監督兼任、1969年で現役を退いた。

中西はホームラン王を5回とった打者である。その飛距離は圧倒的で平和台球場の場外ホームランは日本プロ野球史上最長飛距離(一説では162メートル)であるといわれている。また打球の速さが他の打者とは違った。そして瞬足であった。このあたりは大谷翔平を彷彿とさせる。ユーチューブの画像で、大谷については、身体の進化、努力、人間性をあげ、毎日テレビで応援していると語っている。

三原マジック」といわれた義父の三原脩から受けついだ野球と人生にかんするメモを満載した「三原ノート」は、日本ハム栗山英樹監督に引き継がれた。その流れがWBCの優勝につながっているのだろう。

現役引退後は監督として日本ハムファイターズ阪神タイガースなどの監督や代行を務めた。またいくつかの球団のコーチとして、若松勉岡田彰布掛布雅之宮本慎也など多くの逸材を育てた名コーチでもあった。中西はグラウンドでの豪打に似ず、意外なことに繊細な性格だったという見方が多いことを初めて知った。

中西の活躍した時代は私が小学校にあがる前である。私は長島のいる巨人ファンだったが。周りには西鉄ファンが多かった。その中心にいたのが中西だった。

中西太座右の銘はナニクソをもじった「何苦礎」である。何ごとも苦しい時が自分の礎をつくるという意味だ。この言葉は後輩にも影響を与え、岩村明憲田口壮らが引き継いでいる。豪打、瞬足の天才打者・中西太はナニク魂の持ち主だったのだ。


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