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「名言との対話」2月1日。山県有朋「弱い羊だけが群がっている世の中など嫌だ。虎の寝そべっている野辺を突き進め」

山縣 有朋(やまがた ありとも、天保9年閏4月22日1838年6月14日〉- 大正11年〈1922年2月1日)は、日本政治家。

山口県萩市出身。松下村塾に入門。高杉晋作奇兵隊に参加。正義党を指揮し、俗論党を打破し藩論を倒幕に一変させる。北陸道会津鎮撫総督の参謀。西郷従道と欧州を巡遊。。帰国後、兵部少輔として軍制改革にあたり、陸軍を創設。兵部大輔として新政府の全国兵権を掌握。陸軍兵輔おして徴兵制を推進。陸軍卿として外国に備える軍へ改革。参議を兼任。近衛都督兼参謀本部長として「軍人勅諭」の制定に関わる。内務卿。伯爵。元勲。総理大臣として教育勅語の発布。法相。枢密院議長。日清戦争の司令官。陸相。侯爵。元帥。総理大臣。元老として身を引くが、影響力を保った。日露戦争参謀総長。公爵。枢密院議長。官僚、軍人を組織する山県閥を形成し元老中の元老となった。大勲位。85歳で死去し、葬儀は国葬となった。

以上の経歴をみると、あらゆる栄誉を一身に集めた人だということがわかる。しかも長寿であった。伯爵、侯爵、公爵と登っていく様は見事であり、最後は大勲位という最高の地位に昇りつめている。

本人は「一介の武弁」が口ぐせであったが、数万首を詠んだ和歌、漢詩謡曲、清元、仕舞、書、そして造園など趣味は広かった。

山県は人材の抜擢と面倒見の良さも抜群であった。4人の総理、西周森鴎外も登用されている。人材の発掘と育成に長けていた。伊藤博文と並ぶ人物であり、2人は仲が良かったが、思想は異なるなど好対照であった。

山県には毀誉褒貶がある。私は司馬遼太郎の小説の中で、愚にもつかない形式主義者である山県を知ったため、いい印象を持ってはいなかった。面倒見がいい、正直一方、重厚、何をするにも一生懸命という評価もあるが、悪役、某の人、権力欲が強いという否定的な人も多い。徳富蘇峰のいう「穏健な帝国主義者」あたりが妥当なところだろうか。

原理原則を保持しながら政治的妥協ができるリアリストであり、思慮深く慎重であり、長い軍政、政治の世界で大過なく過ごしたのは大したものである。引退後も小田原の古稀庵に住み、中央の要人たちは小田原詣でをしていた。「小田原の大御所」と呼ばれていた。

佐賀の大隈重信と長州の山県有朋とは1838年の同年に生まれて、奇しくも1922年の同年に亡くなっている。明と暗、陽と陰、饒舌と無言、舌鋒と腕力、人気と不人気、世論と権力、、、、。2月1日は山県の国葬の日である。

大隈の葬儀は国民葬であり30万人が弔問に訪れた。それにひきかえ最後の元勲・山県の葬儀は国葬であったが、大臣さえも欠席する人もあったくらい寂しいものだった。国と葬の間に「民」があるかどうかで、これほど違った。総理経験者という意味では同じだが、大隈は私学の雄・早稲田の初代総長であり、山県は帝国陸軍の創設者であり総帥であった。二人は全く対照的だ。

天才ではなかった山県は、幕末から明治にかけての生命の危険と権力を巡る攻防という疾風怒濤の日々をくぐり抜け、軍事では大村益次郎という天才、政治では大久保利通という天才の後釜になってしまった。山県は彼らの模倣をするしかなかったのではないか。彼らの思想の進化ではなく、彼らの路線の深化に生きるほかはなかったのだろう。それが評判の悪い、息の詰まるような形式主義的世界になっていく。誰もが山県のそのうっとうしい鎧を敬遠したのである。

常に「一介の武弁」であると自称していた山県は、そういった言葉とはうらはらに政治力もあり、原敬の本格的な政党内閣も容認する度量もあった。

庭造りにも造詣が深く、東京の椿山荘、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵庭園は、自ら想を練り岩本勝五郎や7代目小川治兵衛をして築かせたものである。この古稀庵と椿山荘は私も訪ねている。


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