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5月30日。貴ノ花「弟子を育てるのは根気です。三度挑戦させてだめでももういっぺん、四度目をやらせる粘りが必要です」

貴ノ花 利彰(たかのはな としあき、1950年2月19日 - 2005年5月30日)は、 大相撲力士。

水泳バタフライのメキシコオリンピック選手候補で、強いバネのあるスイマーとして将来を期待されていた。 年齢の離れた兄・若乃花の二子山親方の弟子を志願したとき、「今日からは父とも兄とも思うな、敵だと思え」と兄弟の縁を切ることを条件に入門を許可された。しごきに耐え「辛抱と根性」で早い出世を果たしていく。「土俵の鬼」の弟という血筋のよさと、細身で均整のとれた体格と甘いマスクから角界のプリンスと呼ばれた。

関脇時代に「かばい手」「つき手」論争を巻き起こした横綱・北の富士戦では、立行司木村庄之助は差し違えで謹慎になり引退する騒ぎになった。そしてまた、その後、北の富士が勇み足を取られ敗れるという相撲もあり、常に際どい勝負で、審判泣かせの力士だった。

100キロ前後の軽量でありながら、驚異の粘り腰で、ハラハラ、ドキドキさせる、もつれる相撲で熱烈なファンがついた。同年の私も含め当時はだれもが愛していた力士だった。解説の玉ノ海梅吉が「貴ノ花の足腰にはもうひとつの生命がある」との名セリフも残している。大鵬の1人勝ちにより低迷傾向にあった大相撲人気が息を吹き返したのは貴ノ花の国民的人気のおかげであった。大鵬は貴ノ花に敗れ引退を決意する。

初優勝では、慣例を破って二子山親方審判部副部長が優勝旗を渡すというシーンもあった。相撲界は、10人に1人が入幕を果たし、80人に1人が大関まで昇進し、150人に1人が横綱になれるという世界だ。輪島との「貴輪時代」を担うと期待されたが、北の湖の登場で輪湖時代となった。貴ノ花は長く大関をはり名大関と呼ばれた。貴ノ花は同じく軽量の千代の富士に敗れ引退を決意する。

引退後は藤島部屋を興し、大関貴ノ浪、関脇安芸乃島や貴闘力など有力力士を育てた。後に長男の若花田(横綱・3代目若乃花)、次男の貴花田(横綱・貴乃花)が入門し大成している。初代若乃花、貴ノ花、3代若乃花・貴乃花と続く三代の血筋は国民の貴重な財産となった。貴ノ花は驚異の精神力と強靭な足腰で闘った現役時代と同様に、藤島親方、二子山親方として、「根気と粘り」で弟子を育成し角界を盛り上げた功績にも大きなものがある。

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