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「名言との対話」1月5日。横井小楠「堯瞬孔子の道を明らかにし、西洋器械の術を尽くさば。なんぞ富国に止まらん、なんぞ強兵に止まらん、大義を四海に布かんのみ」

横井 小楠(よこい しょうなん 文化6年(1809年)8月13日ーー明治2年(1869年)1月5日)は、日本武士熊本藩士)、儒学者

熊本市出身。東の佐久間象山(1811−1864)と西の横井小楠(1809−1869)と呼ばれた横井小楠は、勝海舟吉田松陰橋本左内由利公正、木戸、岩倉、森有礼坂本龍馬高杉晋作など、新時代を創った人々の先生格だった。坂本龍馬より26歳、高杉より30歳年上である。海舟は「天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南州とだ」「横井の思想を、西郷の手で行われたら、もはやそれまでだ、、、」と危惧していたが、実際の歴史はそうなった。

横井は幕府や新政府への提言が容れられるなど中央で活躍したが、地元・肥後では跳ね上がりものとして危険視されていた。最後は維新の元勲たちと並んで新政府の参与に登るが、地元では酒癖も尋常ではなくきわめて評判が悪く、記念館が建ったのはやっと昭和57年である。

2007年に横井小楠記念館を訪問した。熊本の人物記念館は入館料200円と一律であること、そしてそれぞれの館長さんがサービス精神が旺盛であることが特徴であり、気持ちがいい。「記念館も競争の時代です」は横井小楠記念館の館長さんの名言である。周到に準備された系図や人物名などの掲示物を使って、まるで講談を聞いているような説明ぶりで、よくわかった。また、茶菓のサービスもあるなど実践している。文化財保護法も改正されて、保護管理から保護活用に変化しているそうだ。

横井は幕府や新政府への提言が容れられるなど中央で活躍したが、地元・肥後では跳ね上がりものとして危険視されていた。最後は維新の元勲たちと並んで新政府の参与に登るが、記念館が建ったのはやっと昭和57年である。酒癖が悪かった小楠がつくった小楠堂の掟の中に「酒禁制の事」とあったのは愉快だった。

江戸時代の九州の私塾をみると、帆足万里の西崎精舎(大分県日出市)、広瀬淡窓の咸宜園(大分県日田市)、シーボルト鳴滝塾長崎市)、そして横井小楠の四時軒(熊本市)があった。

横井小楠の妻の姉の子供が、徳富蘇峰徳富蘆花である。父の一敬は「淇水」と号し、「維新の十傑」 のひとり横井小楠に師事した人物で、一敬・小楠の妻同士は姉妹関係にあった。東の佐久間象山(1811−1864)と西の横井小楠(1809−1869)と呼ばれた横井小楠は、勝海舟吉田松陰橋本左内由利公正、木戸、岩倉、森有礼坂本龍馬高杉晋作など、新時代を創った人々の先生格だった。坂本龍馬より26歳、高杉より30歳年上だった。

年上の北里柴三郎後藤新平の半年後に衛生局に入局し下についたが仕事は違った。「いけすかない男だ」と北里は思いった。後藤は「横文字好きの青二才」と北里を軽蔑し、北里は「浅学の田舎医者」と揶揄した。後でわかるが、後藤の面倒をみた安場安和は横井小楠の高弟であり、北里は横井の門弟から指導を受けた孫弟子である。二人は犬猿の仲だったが、後に親友となる。

「人必死の地に入れば、心必ず決す」 。選択の余地があると人は迷う。得失を頭で考えて結論が出ない。この道しかない、とハラをくくると迷いは消える。

「政治は、万民のためを判断基準とする王道を歩むべきで、権謀術数による覇道を排すべきだ」と小楠は言った。そして「国是三論」で富国の道を説いた。そこでは武士は商人と公僕の姿をしていた。維新後に、明治政府の参与にのぼるが、暗殺された。

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