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9月20日。 土井たか子「山が動いた」

土井 たか子(どい たかこ、土井 多賀子、1928年11月30日 - 2014年9月20日)は、日本の政治家、法学者。衆議院議員(12期)、日本社会党委員長、衆議院議長、社会民主党党首などを歴任した。日本における女性初の衆議院議長、政党党首。

土井たか子は、衆議院選挙に出るときは、社会党の成田知己委員長から、「次の総選挙が間近です。ついては、決断してくだい」といきなり言われる。140あった議席が90に激減する。その90番目で当選した。

1983年に飛鳥田一雄委員長が辞任するときには、土井たか子を推す声もあったが、「女の人の世話になるほど落ちぶれてはおらん」となった。1986年の衆参同日選挙では110人が85人に減り、石橋政嗣委員長が「ここまでくれば土井さんしかないだろう」となり、対立候補の上田哲をくだして委員長に就任。1989年(平成元年)の参議院選挙では、社会党は社公民路線で改善議席の倍以上の議席を獲得し、自民党は過半数を割った。参院は与野党逆転。これは、土井ブーム、マドンナブームと呼ばれた。1990年総選挙でも「おたかさんブーム」で、139議席と従来より51議席増やすが、公明党、民社党が距離を置き、公民は自公民路線に舵を切る。1991年の地方統一選挙で敗北し土井は委員長を辞任。

1993年総選挙で細川護煕首班の非自民・非共産連立政権となり、土井たか子は衆議院議長に就任。議員指名には従来慣行の「君付け」に代わり「さん付け」を用いて話題になった1996年、社会党は社会民主党に改名。党首に就く。

趣味はパチンコとカラオケ。好きな球団は阪神だった。生涯独身。

中曽根康弘は、「非常に生一本な、理念を重んずる、そして真一文字に進んでいく、立派な社会党の党首だと、そういう風に敬意を表していましたね」と評価している。「ダメなものは、ダメ!!」という土井の言葉にも支持があった。

原理、原則、基本を大事にする人であった土井たか子の議員会館の部屋には書家・金子鴎亭に書いてもらった、「山の動く日」という書が掲げてあった。それは与謝野晶子の詩の一部だった。与謝野晶子が雑誌『青踏』創刊号巻頭に寄せた詩の冒頭は次のようであった。

「山の動きく日来(きた)る。かく云へども人われを信ぜじ。山は姑(しばら)く眠りしのみ。その昔に於いて 山は皆火に燃えて動きしものを。人よ、ああ、唯これを信ぜよ。すべての眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる」「一人称にて物書かかばや。われは女(おなご)ぞ」。

毎日「山の動く日」という書を眺めていた土井たか子は、1989年の参院選挙で社会党が大躍進したとき、「山が動いた」との名言を吐いた。土井たか子の政治家人生をを眺めると、男性優位社会の中で周囲から勝手に環境をつくられて、その都度反発しながらも、「やるっきゃない!」と清水の舞台から飛び降りている。この「山が動いた」のように、短いが端的にそのときの状況をあらわす名言は、日本古来の歌や句と同様に、命が長い。


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