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「名言との対話」3月8日。谷沢永一「男が成長するとは、自分が持たないものをひとつひとつ確認し、次第にあきらめてゆく行程である」

谷沢 永一谷澤 永一、たにざわ えいいち、1929年6月27日 - 2011年3月8日)は、日本国文学者文芸評論家書誌学者。専門は書誌学、日本近代文学関西大学教授。享年81。

76歳の時点で200冊を超える著作を持つ稀代の著述家・谷沢永一は3月8日に81歳で死去している。鋭い舌鋒で文芸評論を書き世の思想家の心胆を寒からしめた人物。入院中も、頭の中で原稿を書いているんやと妻に語っていたほど物を書くことに没頭した人生であった。

改めて経歴を眺めると2011年3月8日に亡くなっている。あの3・11の大震災の直前だったのだ。

私は当初司馬遼太郎作品の名解説者として名前を知ったが、この人の書くものに惹かれてかなりの本を読んでいる。谷沢永一は、司馬遼太郎を日本文学史上の最高の書き手であると断言し同時代に生きてその作品を旬のまま読む至福を感じている。

また肝胆相照らす渡部昇一との共著も多い。座談の名手で、文壇のエピソードを満載した巧みな話術で対談集も多い。「、、開高が「会食をする時に、皆を笑わせる小話をちゃんと用意してこない者は、罰するべきである」と言っていました。、、」。なるほど、それを実行しているということか。

神保町の古本屋で手に入れた『執筆論--私はこうして本を書いてきた』(谷沢永一東洋経済新報社)を改めて読んだ。稀代の著述家・谷沢永一の企画の視点と書く技術を、つまり著作活動を続けるノウハウを公開した本である。
この本は中学2年生からの自らの作品が出来た時の経緯、人との縁、そしてなぜその作品に取り組んだのかという著作史になっている。その過程で手の内を公開しようというもくろみで書かれている。こういうテーマに一般論はなく、具体的な事例に即して書いていく中で、ノウハウらしきものが表現できるということだろう。

「後日に思いを残す未練が生じないように、その時点において思い浮かべるすべてを書き尽くすつもりで集約の気分に発してとりかかる姿勢を常に私は基本方針としていた」「ローマは一日にして成らず。、、、用意なくして行為なし。人のする仕事は準備と用意の結果である」「何が好きかわからぬうちは、一個の生物であっても一人立ちの人間ではない。好きこそものの上手なれ。これ以上に人の生きる道を指し示すのに有効な名句はない」

少年の頃にはあらゆる可能性がある。青年になったときにはかなりの可能性を捨てている。壮年では進むべき方向の選択肢は限られている。こう谷沢のいうように、私たちは可能性を捨てながら人生を歩む。その過程で自分の持っているものの少ないことを確認し、ひとつひとつあきらめて、わずかに残った道を歩んでいく。それは大人になっていく行程なのである。

「才能も智恵も努力も業績も見持ちも忠誠も、すべて引っくるめたところで、ただ可愛げがあるというだけの奴には叶わない」

「学問の道で多少でも事を成した人は必ず良き師に恵まれている」

入院中も「頭の中で原稿を書いているんや。もう単行本2冊くらいはできたやろうなあ」(妻の美智子さん)。座談の名手。宴席でも文壇のエピソードを満載した巧みな話術。

紀田順一郎『蔵書一代』(松籟社)を読了した。この本に記されている著名人の蔵書数が興味を惹いた。井上ひさし14万冊(山形の遅筆堂文庫)。谷沢永一13万冊(関西大学谷沢永一文庫)。草森紳一6.5万冊(帯広大谷短大草森紳一記念資料室)。布川角左衛門2.5万点(国会図書館に布川文庫)。大西巨人0.7万冊。渡部昇一15万冊。立花隆3.5万冊。山下武2万冊。江戸川乱歩2.5万冊。(徳富蘇峰10万冊)。谷沢永一は蔵書数でもトップクラスだ。

昭和4年生れの谷沢永一昭和5年生れの渡部昇一の対談本も読んでいる。『人生後半に読むべき本』(PHP)というタイトルで、2人の稀代の読書家による読書論である。後書きを読むと私の本の担当でもあるPHPの若い編集者の企画だと書いてある。この2人の対談を実際に聞くには楽しいだろうなあ、とうらやましかった。

谷沢は司馬遼太郎の研究者としても著名であるが、司馬は「自分の後を追跡されたくないので、全部(本や資料)を処分してしまって、足跡をくらましてしまう(笑)」と言っている。「戦国物が済んだら、その資料はポイ」らしい。そうか、だから小説を書くたびにトラック一杯の古本類が届くといわれた資料が記念館にも見当たらないのだろう。

渡部は若い頃読んでよかった本も今読むと全く面白くないという経験をあげている。漱石は49歳で亡くなっているから、そういう若い人の人生観察はどうということはない、と述べていて笑わせる。年をとると目が肥えてくるということらしい。

2人とも70代後半なので、こういう人が勧める本はいいに違いない。彼らが勧める本をあげてみる。折にふれて手にしてみたい。

渡部昇一:ハマトン「知的生活」「知的人間関係」。伊藤整「氾濫」。藤沢周平「三屋清衛門残日録」。松本清張「短編全集」。清水正光「評釈伝記小倉百人一首」。高浜虚子「俳句はかく解しかく味わう」。立花隆日本共産党の研究」。松下幸之助「21世紀の日本」。本多静六「私の財産告白」。アレキシス・カレル「人間--この未知なるもの」。幸田露伴「努力論」。吉川英治「三国誌」「新書太閤記」」「新・平家物語」。池波正太郎仕掛人藤枝梅安」。岡本綺堂「半七捕物帳」。「唐詩選」。ヒルティ「幸福論」。伊藤正徳軍閥興亡誌」

谷沢永一:薄田泣菫「茶話」。河盛好蔵「人とつき合う法」。久世光彦「マイ・ラスト・ソング」。和田誠「お楽しみはこれからだ」。野口久光「想い出の名画」。安東次男「完本 風狂始末」。ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」。ブローデル「地中海」。大仏次郎赤穂浪士」。平岩弓枝御宿かわせみ」。徳田秋声「あらくれ」。リップマン「世論」。シュンペーター「経済発展の理論」。高橋亀吉「日本近代経済形成史」。山手樹一郎「短編時代小説全集」

『「谷沢永一 二巻選集下 精選人間通』(鷲田小彌太偏)を読了した。大判400ページの大著。読書通であるから歴史通になり、歴史通の本質である人間通になり、その目で現代を見つめるから時評通になった谷沢永一を魅力を堪能できる快著だ。

谷沢永一は人間としての本物を見分け、そうでない偽物には徹底して650字で弾劾を加えた。谷沢からターゲットにされたら、もはや逃げ道はないと恐れられた。 批判の俎上にのぼったのは、森鴎外山本健吉丸山真男羽仁五郎佐藤信夫、、。

人物論。「才能ある人物のやむを得ない人間的欠点を、鋭く、しかし暖かく、距離をおいて見るのが、本当の人間通ではないか」。「人生の最大の楽しみは、いり豆をかんで古今の英雄をののることだ、と言ったのは荻生徂徠だ」。「明治文学全集」92「明治人物論集」(筑摩書房)。人物論の最高の成果は「日本近代書誌学細見」。

谷沢が優れた学識、生き方で尊敬している人。石橋湛山石橋湛山全集全15巻」(東洋経済新報社)。「湛山を読まずして、日本現代史に口出しするなかれ」。森銑三「明治人物逸話辞典」「大正人物逸話辞典」(東京堂出版)。「明治東京逸聞史」(平凡社)。内藤湖南山本七平開高健

人間通で人物評論の嚆矢としてあげているのは、以下。三宅雪嶺。「人間観察の透徹において、まさに古今独歩、まったく無類の存在であった」。司馬遼太郎の「司馬人間通史観」「人の生き方を支えた素志に同情し、観察の光源を暖色に調節しながら、躍動する人物の見えない部分を透視するべく務めたのである」。近藤唯之「プロ野球監督列伝」。人物論で、読むべき本がわかった。

ある雑誌で渡部昇一谷沢永一という二人の碩学が対談をしていた。この二人は万般に通じてるのでどの対談も面白い。今回のテーマは「川柳」である。

「俳風柳多留」(柄井川柳)から:子ができて川の字なりに寝る夫婦・おい女房乳を飲ませに化けて来い・米つきに所を聞けば汗をふき・取揚婆(とりあげばば)屏風を出ると取り巻かれ・はげ頭能(よ)い分別をさすり出し・医者衆は辞世を誉めて立たれたり・道問えば一度にうごく田植笠・母の名は親父の腕にしなびて居

「日本史伝川柳狂句」(岡田三面子)から:武蔵坊とかく支度(したく)に手間がとれ・清盛の医者は裸で脈をとり・生つばき吐き吐き巴切て出る・浮草へむだに深草通いつめ・江戸ならば深川辺りに喜撰住み・只ものを人に遣るさへ上手下手・三平二満(をとごぜ)の男ずれぬをとり得にて・口に似ぬ女房ぎらひの子を持(もち)し・内藤はちょいと書物を横に置き・学者虚して曰く少ないかな腎・五戒より和尚厄介保ってる・江戸っ子の生まれそこない金を貯め・金持ちをみくびって行く初鰹・お釈迦様生まれ落ちると味噌を上げ・浪人は長いものから食い始め、、。

「川柳雑俳の研究」(麻生磯次)から:三回目箸一膳の主となり・落ち鳥啼いて女房腹を立て・なぐさみに女房のいけん聞いて居る

渡部「川柳にはユーモアだけでなくウイット(機智)もあるし、サタイア(風刺)もあります」渡部「ユーモアを養うためにも、普段から教養や知性を磨いておくと同時に、心に余裕を持たなければなりませんね」

人間通であった谷沢永一には名言が山ほどある。そのなかで、「男が成長するとは、自分が持たないものをひとつひとつ確認し、次第にあきらめてゆく行程である」はさび効いていて納得せざるを得ない。そういう道程の中でも「運は人の形でやってくる」という言葉にも深く共感を覚える。そしてチャンスはピンチの形でやってくるのだ。私もそういう人生の妙味もわかる年頃になった感じがする。


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