見出し画像

「名言との対話」5月24日。野上照代「往時渺茫」

野上 照代(のがみ てるよ、1927年5月24日 - )は、日本の映画スクリプター。黒沢プロダクション・マネージャー。

都立家政女学校卒業し、図書館講習所入学。卒業後、山口高等学校図書室に着任。終戦後、東京へり、人民新聞社に入社。1947年には八雲書店に入社する。同僚に草柳大蔵、仕事で井伏鱒二と知り合い親交を深めた。

女学生時代に伊丹万作監督の『赤西蠣太』を観て、ファンレターを書いたのがきっかけで、伊丹家と親しくなり、約1年間、万作の長男伊丹十三と同居し面倒を見る。1949年の監督の没後、大映京都撮影所で記録係(スクリプター)の見習いとなる。

1950年、黒澤明監督の『羅生門』にスクリプターとして参加。1951年、東宝へ移り『生きる』以降の全黒澤映画に記録・編集・制作助手として参加した。その間、1966年よりサン・アドにも在籍し、CM制作なども手がけた。1979年、同社を退社。

1984年、自らの少女時代を描いた「父へのレクィエム」が読売ヒューマンドキュメンタリーの優秀賞を受賞。2008年これを『母べえ』として山田洋次監督が映画化した。

『天気待ち 監督・黒澤明とともに』(草思社文庫)を読んだ。さすが「記録係」で、黒澤映画の撮影現場のリアルな情景が細部まで克明に描かれていた。

黒沢監督の撮影現場でのふるまいと一言、一言がリアルで興味深い。黒澤の自伝『蝦蟇の油』を読んでみたい。

黒沢明は撮影助手のなるはずだった三船に惚れこんで大スターに変身させた。「おれは三船に惚れて、あいつの素晴らしい個性と格闘した」。

「俳優には絶えず新しい役に取り組ませ、新鮮な課題を与えないと、水をやらない植木のように枯れてしまう」「俳優はシンフォニーと同じでバランスが大事なんだ」

「映画監督という職業が何に一番よく似てるかっていえばいうとね、オーケストラのコンダクターなんだよ」

黒沢監督は「要するに、いろんなことがあったよ」という言葉が好きだった。

この本の中で、北海道の牧場主・白井民平さんがでてきた。『七人の侍』で使う150頭の馬を集め、訓練する役割だ。馬術界の雄で、小柄だが大きな声と豪放な人柄だった。わたしの20代の北海道千歳時代に親しくなった人だ。後年、吉永小百合さんの「鶴の恩返し」という作品で協力依頼に見えたことがある。白井さんは後に自殺したと聞いてショックをうけたことがある。

たった一本の映画「赤西蠣太」が野上照代の人生を決定してしまった。野上は伊丹万作は最初の師匠となった。伊丹万作には名言、箴言が多いそうだ。自伝の『壁新聞』を読んでみたい。 「朝、出勤するとき、撮影所の全部が一眸のうちに入る地点に来たらそこで一度たちどまれ」

野上の述懐を聴こう。「撮影中の天気待ちは楽しい」。それはみなが一服できるからだ。その時間は人のうわさで過ごす。 「役者稼業ほど競争の厳しい商売はないだろう」。「映画というものは隅から隅まで、丁寧に作ってゆくものなのである」。

89歳、2016年の『完本 天気待ち』では、「何と幸運に恵まれた人生だったことよ」と回顧している。その中で「往時渺茫」という言葉が出てくる。茫々ではなく、渺茫だ。数日前に亡くなった八木哲郎さんの作品に「往時茫々」という言葉があったことを思い出した。あまりにも広大でつかみきれない様子を表現したものだが、「往時渺茫」とはどういう意味なのだろうか。調べると、元和14年(819年)3月11日、中国の詩人・白居易は4年も別れていた親友元稹と、峡中の地で偶然に出会う。そのときに書いた詩の一節にあった。

 往事渺茫として都べて夢に似たり さりし昔は果てしなく、すべては夢に似て

 舊遊零落して半ば泉に歸す 旧友落ちぶれ、半ばは黄泉に帰す

 酔悲して涙を灑ぐ春盃の裏 悲しく酒に酔い、零れる涙 盃の中

 吟苦して頤を支ふ暁燭の前 詩を吟ずるも苦しくて、頬杖をつく燭の前

昔あったできごとは、はるかに遠い彼方にうっすらと、まるで夢のように浮かんでみえる。生涯におけるさまざまの出会いや、出来事を、折に触れて思い出すことが私にも多々ある。往時は茫々たる時空のなかにあり、また人々との出会いと別れは渺茫として夢のようだ。 いい言葉をもらった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?