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「名言との対話」1月17日。米沢富美子「人生、これかあれか、ではなくて、これもあれも、という人生が可能なんだ」

米沢 富美子(よねざわ ふみこ、女性、1938年10月19日 - 2019年1月17日)は、日本物理学者理論物理学)。慶應義塾大学教授。日本物理学会会長。享年80。

NHKラジオアーカブス「声でつづる昭和人物史」で、昨年「昭和」の女性科学者として、猿橋勝子に続き、米沢富美子の壮絶な人生を知り感心した。今回、ようやくこの人のことを書ける。

大阪府吹田市生まれ。米沢の母は高等女学校時代に数学の虜になり、食事の時間も惜しんで好きな幾何学の問題を解いていた。家人の反対で上級学校への進学を諦めた人だ。この母は5歳の娘・富美子に証明法を教えたところ、すぐに理解した。「もっと教えて、もっと教えて」とせがんで教えてもらう。

富美子の知能指数は175という高いものだったは、自分では「170台という数字は自分では不満で、実際には200以上でもとれたはずだと考えていた」という。

湯川秀樹のいる京都大学理学部物理学科で学んだが、大学院生のときに先輩から結婚を申し込まれる。物理をさらに学びたいと二者択一で考えていたのだが、両方をとることを考えよといわれ開眼する。人生は「あれか、これか」ではなく、「あれも、これも」でいこうと決め、23歳で結婚する。しかし結婚後は、多忙な証券マンの夫は家事も育児も全く手伝ってくれなかった。夫のロンドン、ニューヨークなどへの赴任にともなって、富美子も同伴し、その地で師を見つけ研究を継続している、

つわりで動けなくなってしまった時、「君が勉強している姿、このごろ見なくなった。怠けているんじゃないか、研究をちゃんとしないとダメじゃないか」と言われる。「一番痛いところを突かれた」と感じ奮起する。

3人の娘を育てながら世界的な研究成果を上げていく。「学会の子連れ狼」と呼ばれていた。また米沢には、子宮筋腫乳がんなどの病魔が襲い、子宮も両方の乳房も失っている。

映画、コンサート、飲み会の時間がなくなるが、「研究の時間自体はそんなに影響を受けない」と前進していく。京都大学助教授から、44歳のときに慶應義塾大学教授に招かれている。

物理学とは何か。「物理というのは、日本語で“物の理(ことわり)”と書くんですね。(だから)物理とは物の理を解き明かす学問なわけです。じゃ、物ってなんだといわれると、森羅万象。宇宙に存在するすべてのものです。(中略)正しく学べばとっても面白い学問です」

「研究そのものの魅力というのは、世界中の誰も知らないこと、新しいことを見つけていくという、その楽しみがある」という米沢富美子はこういった環境の中で、コヒーレントポテンシャル近似や、金属絶縁体転移の理論など物理学研究に大きな功績をあげた。アモルファス電池、液体金属などが成果だ。1984 年の猿橋賞をはじめ、1996 年のエイボン女性大賞、2005 年ロレアル‒ユネスコ女性科学賞など,女性科学者に与えられる賞を多く受賞している。

女性初の日本物理学会会長であり、「女性科学者に明るい未来をの会」会長として後輩の支援にも熱心だった。物理学会は2019年に米沢富美子記念賞を設立している。科学の分野にも猿橋勝子、米沢富美子など女性の列があるのだ。

結婚前の夫の言葉から、「これも、あれも」と、全部手に入れようとした。それがすべてを決めたのだ。その生命力、バイタリティに感心した。その夫は、60歳で亡くなったが、その悲しみも乗り越えている。

私も学生時代に「あれか、これか」で悩んだことがある。そのとき、ある先輩から「あれも、これも」という考え方をしたらどうかとアドバイスを受けて、危機を脱したことを思いだした。社会人になってからの二刀流の生き方は、その影響だろうと今になって感じる。


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