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「名言との対話」10月31日。犬飼哲夫「タロとジロ」

犬飼 哲夫(いぬかい てつお、1897年10月31日 - 1989年7月31日)は、日本動物学者

長野県出身。旧制松本中学から北海道大学農学部に入学し、発生学者・八田三郎の弟子となる。1930年に農学部教授に就任。この頃に眼をいため、顕微鏡を使った手法がとれなくなり、哺乳類を中心とした応用動物学へ転向した。理学部新設にともなって、兼任となる。礼文島利尻島でのニホンイタチによるノネズミ退治、北海道とサハリンのナキウサギの研究も行っている。定年退職後、酪農学園大学教授、札幌市教育委員長、北海道開拓記念館初代館長などをつとめた。また野兎研究会を組織し会長をつとめた。

犬飼哲夫の事績で有名なのは、南極探検で活躍した樺太犬のタロとジロの物語だ。南極観測隊のために樺太犬を集めていた犬飼教授は、タロとジロと命名した。この名前は白瀬矗による南極探検で、犬ぞりの先導犬として活躍したタロとジロに因んでいる。北海道に1000頭いた樺太犬から選び抜かれた23頭は樺太出身の後藤直太郎によって訓練された。

1956年、第一次南極観測船「宗谷」で出発し、昭和基地に到着。1957年の第二次隊は悪天候で苦戦し、アメリカ海軍の支援で越冬隊を回収。樺太犬15頭を首輪で基地付近につないだまま残すことになった。犬たちの生存は絶望視された。

1959年の第三次越冬隊がヘリコプターで2頭の生存を確認。第一次越冬隊で犬係だった北村が到着し「ジロ」と「タロ」と呼びかけると尻尾をふって反応した。この2頭の生存と、第4次越冬隊と一緒に日本へタロが帰還し、日本中に衝撃と感動をもたらした。この騒ぎは小学生の私も知っている。2頭を讃える歌のできた。「よかったよかったタロージロー」は、私が親しかった故・冨田勲先生の作曲だったことを知った。タロは北大植物園で犬飼哲夫の弟子の阿部永らによって飼育され、14歳で天寿を全うした。今ではタロの血をひく子孫が全国にいる。ジロは第四次越冬中に病死。

1983年にはタロとジロの生存劇を描いた映画「南極物語」が公開され話題になった。2011年委はTBSテレビドラマ「南極大陸」も放映された。現在、タロのはく製は北大植物園、ジロのはく製は国立科学博物館で展示されている。タロとジロたちが食糧としらペンギンやアザラシの立場から、星新一や藤子・F・不二夫らの批判の作品もある。単純な美談とはいかないようだ。

親からつけられた名前が、その人の生涯を決めてしまうことがある。政治学者の朝河貫一は一筋の道を歩いた。羽田孜首相の「孜」という名前は、孜々としてひたすら励むという意味、その通りの人柄だった。政治家の田川誠一は誠実な人であった。パイオニアの創業者の松本望はいつもひと筋の希望を持ち続けていられた。川喜多長政は、歴史好きの父がアジアに飛躍するようにと山田長政からとり、その名のとおりに「映画」をテーマに世界に雄飛した。小説家の 大西 巨人(のりと)は「きょじん」と読ませてその名の通りの巨人になった。日清食品の安藤百福も、人に幸せを与えるようにと命名されて、チキンラーメンカップヌードルを世に出した。和田誠は2020年4月4日の日経新聞で、「長男に唱と名前をつけたら、歌手になった、次男に率と名付けたら、数学が得意な子になった。やっぱり、何かあるよね」とも語ったと紹介されている。

犬飼哲夫という生物学者は、タロとジロという樺太犬の物語で記憶されている。犬を飼うという苗字が、専門分野の選択に関係し、影響を与えたという珍しい例であるといえるかもしれない。


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