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「名言との対話」2月9日。井上準之助 「名を成すには常に窮苦の日にあり。事の破るるは多くは得意の時による」

井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、1869年5月6日明治2年3月25日)- 1932年昭和7年)2月9日)は、日本政治家財政家

日本銀行第9、11代総裁。山本濱口第2次若槻内閣大蔵大臣に就任。貴族院議員。

大分県日田市出身。日本銀行に入行。英国等に留学し1906年には営業局長に栄進。1910年、横浜正金銀行に入り、1913年に頭取。同年に日銀時代の上司で蔵相となっていた高橋是清の推薦で日本銀行総裁に就任。翌年からの恐慌に際し、産業界の救済に力を注いだ。

1923年の関東震災後にも蔵相となり、モラトリアム(支払い猶予令)などを実施した。1927年の金融恐慌では高橋是清蔵相のもと日銀総裁となった。1929年、世界恐慌の中で金輸出を解禁し、経済界は混乱し昭和恐慌につながっていった。この不況を乗り切るために1931年に重要産業統制法を制定。これが1930年代後半の統制経済への道を拓いていく。

1930年にはロンドン海軍軍縮条約を調印は、天皇統帥権干犯であると軍部の攻撃にあう。浜口首相は、東京駅で右翼青年に狙撃されて翌年に死亡するにいたる。このようして協調外交路線はゆきづまってしまった。そして1932年に井上準之助血盟団の小沼正にピストルで暗殺されたてしまう。

血盟団事件とは、日蓮宗僧侶の井上日召に感化された若者たちが起こした連続テロ事件である。血盟とは血のつながりのある同盟である。宗教的自己犠牲によるテロの実行という構想を持った集団だった。1932年に、井上準之助と三井の団琢磨を暗殺した。海軍将校が犬養首相らを襲った五・一五事件へつながっていく。その甘い量刑が二・二六事件を引き起こす。そして大東亜戦争へとつながっていった。合言葉は「一人一殺」であった。

大分市出身で日銀で秘書として井上に仕えた一万田登によれば、井上は金本位制により軍事予算の膨張を阻止しようとしており、日本を戦争にもっていかないようにしており、青年将校に日本がつぶされないように、軍事予算の無制限の膨張を抑え、平和を守ろうとしていた。しかしこの真意を口にすることはできなかったということだ。

城山三郎の名著『男子の本懐』は盟友であった浜口雄幸井上準之助の物語で、私もじっくり読んで、暗殺された浜口と井上の生涯に感銘を受けている。井上準之助の生涯をながめると、日本が苦境に陥ったときに、上司や盟友たちの懇請によって、表舞台で難局に当たるという仕事ぶりだったことがわかる。「名を成すには常に窮苦の日にあり。事の破るるは多くは得意の時による」は、明治末、大正期、そして昭和の初めという難しい時代に、苦労を重ねた井上準之助の言葉だけに真実を感じる。

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