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「名言との対話」11月11日。山田顕義「生きた、闘った。使命を全うした。人生に悔いはない」

山田 顕義(やまだ あきよし、旧字体: 山田 顯義天保15年10月9日1844年11月18日〉- 明治25年〈1892年11月11日)は、日本政治家陸軍軍人。享年47。

山口県出身。村田清風につながる家系である。松下村塾の最年少(14歳)の門人。1858年に松陰から「与山田生」という詩を与えれる。

 立志尚特異  志を立てるためには 人と異なることを恐れてはならない
 俗流與議難  世俗の意見に惑わされてもいけない
 不思身後業  世の中の人は 死んだ後の業苦のことを思うこともなく
 且偸目前安  ただ目の前の安逸を貪っているだけなのである
 百年一瞬耳  人の一生は長くても百年 ほんの一瞬である
 君子勿素餐  君たちは どうか徒に時を過ごすことのないように

25歳で戊辰戦争で指揮をとり、西郷隆盛から「用兵の天才」と称された。「小ナポレオン」との異名もあるように、その軍才で河井継之助率いる越後長岡藩との戦いでも大活躍する。高杉晋作が亡くなる時に、奇兵隊の後継者として名を挙げたのは、大村益次郎と山田であった。

維新後は暗殺未遂で病床にあった大村益次郎から、近代軍制創設の指示を受け、兵部省設立に尽力する。

1873年岩倉使節団の一員として欧米を視察。ナポレオン法典と出会い「法律は軍事に優先する」ことを確信する。徴兵制を押し進める山県有朋とは意見の相違があり微妙な立場であった。このため、木戸孝允のすすめもあり、参議として工部卿、内務卿を経て、司法分野で腕をふるう。

1885年の内閣制度発足で、伊藤博文内閣で初代法務大臣を皮切りに、黒田内閣、山県内閣、松方内閣でも司法大臣をつとめている。司法大臣の通算期間は9年に及ぶ。後に枢密院顧問官に就任する。

1878年には日本大学法学部の前身である日本法律学校を創設した、日本大学の学祖でもある。

山田の言葉。「英雄は死す。されど凱旋門は残る。英雄の名声と遺産によって、市民はその豊かさを享受する」「兵は凶器なり」(軍事力が強くなりすぎると脅威にかわる)「法律は軍事に優先する」。この人が日本の軍制を担当してたら、その後の日本の運命も変わっていたかもしれない。

山田顕義は、幕末には松下村塾で松陰の薫陶を受け、軍事の天才として活躍し、維新後は司法大臣をながくつとめるなど功績は大きなものがある。その功績により伯爵となっている。童顔であった山田は師の松陰からは「人の一生は長くても百年 ほんの一瞬である」と言われたが、47年の生涯しか与えれなかった。しかし、山田顕義は「君たちはどうか徒に時を過ごすことのないように」との教えに従って生き、「生きた。闘った。使命を全うした。人生に悔いはない」と常に語っていた。師の吉田松陰の教えを忠実に守った人であったと言えるだろう。こういう事例を知ると、松陰の教育者としての偉大さを思わざるを得ない。




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