12月6日。徳川光圀 「誕生日は、最も粗末な食事でいい。この日こそ、母を最も苦しめた日なのだから」

徳川 光圀(とくがわ みつくに、寛永5年6月10日(1628年7月11日)- 元禄13年12月6日(1701年1月14日))は、常陸水戸藩の第2代藩主。

黄門様という名前で知られている水戸光圀は、実は諸国を漫遊してはいない。歴史書編纂のために使いを出し諸国の歴史資料を収集した。これが黄門様の諸国漫遊の物語につながっていく。すけさん、かくさんは、この編纂事業の重要な仕事師だったのだ。三大名園として有名な偕楽園に隣接している義烈館は死後300以上経った今も光圀の業績を語っている。

光圀は18歳のときに司馬遷の「史記」を読み、発奮し、紀伝体の歴史書である日本の「史記」をつくろうとした。編纂所をつくり本格的に事業を開始する。光圀が30歳の時である。光圀は73歳で亡くなるが、完成しない。列伝は没後15年目にやっとでき、それから修正が始まる。明治維新で水戸藩が無くなってからは、徳川家の私的な事業として続けられ、明治39年に、397巻、目録5巻の合計402巻が完成した。この間、実に250年の歳月がかかっている。徳川幕府の長さに匹敵する膨大な時間である。

「朝廷に対し弓を引くことあるべからず」。この家訓が、後の将軍慶喜の大政奉還につながっていく。

頭脳明晰で判断力に優れ、顔だちもよく行動も俊敏だった。しかし光圀は三男であった。光圀は兄二人を差し置いて6歳で世子になり、水戸徳川家を継ぐのだが、中国の「伯夷伝」にならい次代は兄の子に継承させ、兄の深い悲しみに答えた。この言葉も、情に厚い光圀の真骨頂を示している。

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