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「名言との対話」3月24日。井伊直弼「一期一会」

井伊 直弼(いい なおすけ。文化12年10月29日(1815年11月29日)-安政7年3月3日(1860年3月24日))は、幕末譜代大名近江彦根藩の第13代藩主。幕末期の江戸幕府にて大老

直弼は17歳で300俵のあてがい扶持をもらい北の御屋敷に住む。ここを埋木舎(うもれぎのや)と名付け、15年間の部屋住み時代を過ごす。この時代に、禅、居合い、兵学、茶道、国学、歌道、古学などの教養を積んだ。藩主の死去によって36歳で彦根藩主とななり幕閣で頭角をあらわす。13代将軍家定の継嗣問題で幕府は揺れたが、1858年に直弼は大老に就任し家茂を将軍と決定し、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、反幕府運動を徹底的に弾圧する。大政委任を受けた幕府が「臨時の権道」をとるのは当然であり、「重罪は甘んじて我等一人に受候決意」だった。不忠の臣とも、開国の恩人ともいわれ、時代によって評価には振幅がある。

「井伊の赤鬼」と恐れられたし、明治政府からすれば大罪人ということになり厳しい評価にさらされているのだが、NHK大河ドラマの初回「花の生涯」で描かれたように第一級の教養人であった。「一期一会」は井伊直弼の『茶湯一會集』の巻頭に出てくる井伊直弼の造語として知られているが、もともと千利休の弟子山上宗二の著書にあったものだ。それを井伊直弼は自分の茶道の心得とし、井伊の言葉が広まったと言われている。

世に埋もれている時期も、そして幕府の要職をつとめる時も、「人は上なるも下なるも楽しむ心がなくては一日も世を渡ることは難しい」という心持ちで過ごしたのである。「一生に一度」の決意でものごとに当たる心構えの井伊直弼は暗殺で斃れることはもとより覚悟の上であった。「一期一会」は厳しい言葉であると改めて思う。

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