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カルマ/第15章・前編|真実度999|人類生命学(動物脳)

『I<わたし>真実と主観性』デヴィッドRホーキンズ著P316~P322

Q:どこかでカルマについて言及されていますが、もう少し詳しく話していただけますか?

A:宇宙全体とそれに含まれるものすべては、「神の顕在」が単一のカルマとして作用しているのであり、そこではありとあらゆる要素がそれぞれの本質を表現し、成就しています。つまり、生命の体験とは、これらすべてのフィールドが相互に作用するダンスであり、また、それが神より定められた存在することそのものの帰結でもあります。

存在(existence)を与えられたことは、同時に生命の息吹を吹き込まれたことでもあるので、”実在(being)”となります。つまり、”実在する(to be)”とは、気づきの能力を照らし出す光のように、生命に内在する意識とともに存在するということです。

全宇宙もそこに存在するすべてのひとつのカルマを共有しているので、「真実の十全性」とは覚醒の実現です。万物が同じ源から発するひとつのカルマだとすれば、そこに分離を見るのは知覚のなせる業です。「真実」においては、ひとつもいくつも同じなのです。

キネシオロジーを知っている人は誰でも、カルマに関する質問なら何でも簡単に答えることができます。本質において、個人のカルマは、意識という非物質的な領域の中に存在する情報のパッケージです(コンピューターチップによく似ています)。情報のパッケージの中には、霊的な身体あるいは魂の一部である固有の情報コードが収められています。そのコードは、付随する思考や感情などのニュアンスとともに、過去の体験すべてを凝縮しています。スピリット体は、選択の自由を保持していますが、選択の幅はすでにパターン化されています。

つまり、同じパターンを繰り返す傾向にあることは明白ですが、同時に変化する機会も与えられています。たとえば、対極性という矛盾を超越することもできます。魂は肉体を持って生まれ変わることも、肉体を離れることも、あるいは霊界を探究し、それゆえに地獄や煉獄をさまよったり、願わくば「愛」や「真理」、神もしくは「救い主」に身を捧げることによって天国へと導かれることもできるのです。

プライドと謙虚さのどちらかを選ぶかは、個人のカルマに多大な影響を与えます。キネシオロジーに問うことで、ブッダの目的が覚醒を教えることだったということが明確になりました。対照的にキリストは、自らが霊的な存在であることを受け入れていない、すべての魂の救い主として現れました。ブッダは覚醒を教え、キリストは救済を教えたのです。

カルマを理解していないと、現世は不当で残酷なものに映るでしょう。ナイーブな人たちには、悪者が”無罪放免”のままで、善人が虐殺されているように見えるでしょう。そのため、多くの人にとっては信仰がこうした矛盾を説明してくれる支えとなっています。信仰とは、目に見える現象を超えて神性の真実が存在することを確信することです。それはわたしたちの研究と経験に基づけば、十分に根拠があることだと言えます。

Q:どうして過去世を思い出す人がいるのでしょうか?

A:意識レベルが600以下では、通常過去世のことは忘れています。というのも、肉体/心(マインド)を”わたし”だと思い込んでいるからです。しかし、この忘却は変性意識や体外離脱、夢、催眠状態、臨死体験、フラッシュバック現象などで超越することができます。過去世退行療法は、過去世のトラウマや誤りを思い出すことによって、今生でそれが病や精神疾患として現れているのを癒す、効果的な治療法として有名です。過去世退行を治療に採用することは、驚くべき効果と癒しをもたらしています。また、幼い子供の中には、自分から過去世のことを話したり、現在でも証明可能な詳細を思い出したりする子供さえいます。

意識レベルが600以上の人は、過去世を知ることができます。というのも、彼らの自己は、目撃者/経験者/意識の気づきと一致しているからです。過去世を思い起こすと、過去に起こったきわめて重要な霊的な出来事は、今生の出来事や態度、精神構造と深く関わっていることに気づきます。振り返ってみると、魂の冒険に沿って、パターンが現れていることがわかるのです。

ブッダは数多くの過去世を思い出していますが、こうした気づきはユダヤ教やキリスト教の伝統にはありません。けれども、いにしえまで遡る他の世界宗教の重要な認識となっています。霊的な研究によって、ブッダはたくさんの過去世を経験している一方で、キリストは過去に一度も人間として生きた経験がなく、”天国から降りてきた”ことが判明しました。

カルマへの気づきがないと、他に人生の出来事を霊的な視点から説明してくれるものがないので、信仰への比重が非常に大きくなります。そのことの欠点は、万が一信仰や信念を失った迷える霊(スピリット)は、絶望するか、神に代わるものにすがりつくしかないということです。そして西洋諸国ではそれが起こり、人生をよりよいものとするために、理性/理論/科学などの表現をとった知性が希望の光となりました。こうなると人々は、心(マインド)と理性を神格化し、それを宗教のように扱いました。また、脇目もふらず、社会的、政治的事柄や知的な立ち位置に没入し、あたかもそれらが人類の新たな救い主であるかのようにふるまいました。これは、意識レベル400台の特徴としてよく見られる傾向であり、超越することは非常に困難です。

現に、世界人口の九十六%は、意識レベル499を超えられたことがありません。しかし、知性は完全に霊性を排斥してはいません。知性に非常な信頼を寄せている400台の人々の多くは、同時に宗教や霊的な探究にも熱心です。賢者は、知性は遠くまで連れて行ってくれるけれども、その先に進みたいならば、信仰や信念が知識に置き換えられなければならないことを知っているのです。

Q:肉体的な死を体験した後、意識のカルマにはどのような可能性があるのですか?

A:それは、意識のレベルによって違いがあり、次項のようになります。研究により、天国は意識レベル200以上の魂の行き先であり、その天国にもさまざまな領域があり、異なる霊的グループや信念体系を反映していることがわかっています。昔から、さまざまな宗教は”天国に入るため”の”必要条件”を明記しています。それはまるでそれぞれのグループが”彼らだけ”の天国に行けるかのように聞こえますが、ナイーブな人たちは、それを”唯一の天国”だと思い込んでしまいます。

『I<わたし>真実と主観性』P320

しかし、さまざまな要因によって霊的な行き先が決まることがわかればほっとするでしょう。各自は、意識の全体的な特徴に合った”ふさわしい”ところに行くのです。信仰や献身はそれ自体が報いとなります。天国にはたくさんの領域があり、それぞれが自分にふさわしい場所に行けるのだということがわかれば、宗教的な争いや対立は、敬意と謙虚さをもって捨て去ることができます。排他性を主張するのは未熟さの表れであり、宗教間に不和をもたらします。

偉大な教師は、誰もが”罪を避ける(犯さない)”ことの重要性を訴えていますが、それは200以下のエネルギーフィールドに属するあらゆるふるまいや態度を避けるということです。そうした行為はすべて、わたしたちが「地獄」と呼ぶ、非常に苦しい霊界に続く道だと教えているのです。地獄とは、霊的な苦痛や絶望を意味しており、ほとんどの人は現在の人生においても、すでに失望や落胆、怖れ、喪失感、不安といった”地獄界”の上段の苦しみを経験しています。

罪悪感が後悔という苦しみの次元に行き着くことは明らかで、これはどこまでも深みにはまります。地獄のレベルは、ダンテが正確に描写しています。ヒエロニムス・ボスなどの芸術家は、たいてい地獄界の上段の様子を描いており、そこでは形が優勢です。もっと気味の悪いところは、地獄でも下段のほうで、皮肉なことに(より高い意識レベルと同じで)だんだんと形をとどめなくなり、最後には名伏しがたい恐怖と絶望という、二度と抜けられない無限の底なし沼に落ちていきます。

低い次元では時間は止まり、苦しみは永遠に続きます。したがって、もし地獄界の下段に入ったとすれば、まさに「永遠に希望を絶て」という標識を突きつけられているような光景を目にすることになります。そこに行き着いた魂は、終わりのない絶望とともに無限の地獄にはまり込み、「神の光」が永遠に、そして完全に届かない場所にいるかのように感じるでしょう。

この人生で、わたしはそのような体験をしました。しかしどういうわけか、無形の永遠の地獄の底から、霊(スピリット)のどこかの部分が生き残り、「神よ、あなたがいらっしゃるのなら、どうかわたしを助けてください」と祈りました。この願いは意識の遠くの彼方で、慈しみ深く聞き入れられました。どれほどの時間が経ったのでしょう。意識が戻りました。けれども今度は、自己の感覚が「無限なる神性の臨在」に置き換えられるという、以前とはまったく異なる輝かしい次元にいたのです。心(マインド)は、存在するものすべての源であり本質である、「神性」の啓示の輝きにただ沈黙するほかありませんでした。霊的な真理は、圧倒的な明晰さとともに照らし出されていました。分離された個の自己の感覚はすべて消滅し、唯一、「臨在の無限なる十全性」が残りました。それから長い年月が過ぎ、禅のある言葉でこの体験を思い出しました。「天国と地獄は、十分の一インチの差異しかない」

この経験はあまりにパワフルで、それを自分の中で統合し、人に話したり書いたりできるまでには、三十年もの月日を要しました。それについて説明できるような結果が表れるまでは、話すことは何もありませんでしたし、またなんと話してよいかもわかりませんでした。そして、その説明というのが『パワーか、フォースか』になったのです。

変容を体験する前はいつも自己が中心にいて、あらゆる行動の原因が自我(エゴ)であった気がします。しかし、この感覚は「臨在」によって完全に払拭され、それに続いて原因という幻想も消滅しました。その代わりに、「神性」によって創造された本質として、すべてが自然発生的に起こるという認識に置き換えられました。万物は、その本性ゆえに、その他すべての本性と相互作用をしながら自然発生的に起こっているのです。そこに”原因”などありません。活動とは、反応する生命の相互作用的なダンスなのです。


長いので、最初の1/3程度を前編で投稿します。

最近の気づきは、日本語でいう「先生」という言葉の概念は、無意識の中で上下を生み出す言葉であると思うので、真の謙虚さの意識から、できる限りお互いに使わないほうがいいと思っています。

そもそもが、存在しているだけで、誰かが誰かのお手本という先生みたいなものであって、教養をクリアした者が「先生」という称号を持っているのは、みんな平等に動物脳をもって生きている存在として、いろんな意味で制限を生み出しています。

そもそもが、自己アイデンティティに執着しない真の謙虚さの立ち位置を、自分で掴もうとしないと、言っている意味さえも分からないかもしれません。

すべてはおかげさまで成り立っているのですが、すべてのものはみんなのものであり、みんなのものはすべてのものであるという立ち位置で、お互いがたたえ合えれば最高です。それが、宇宙文明です。

その意識に到達できる教材として、繰り返し繰り返し発信しています。

人類生命学HPをSTUDIOで創作してみました。

STUDIOについて分かったこと。
①Html言語を使用せずに、マウスでのクリック、拡大・縮小などで、ある程度のホームページ作成が無料でできる。最初の使い方がわかるまでのとっかかりがエネルギーがいりますが、結果できました。
②無料で公開した時に、サイトURLが、名前.studio.siteという制限があり、実はこの形では、Google検索エンジンにかからないことが後でわかりました。
③世の中は商売なので、創るためのソフトをフルオープンして、知らずに時間をかけて作った後に、もったいないから月額制に導入をもっていく流れとなっていました。
④現在の地球システムに沿った、そうですよね~というものでした。与え愛で、これを超越するシステムが表れることを願いします。それが、宇宙文明に一歩近づけるエネルギーです。

コラム byヒシャール

復習2点

①心(マインド)は真偽を見分けることができない。

②自分の動物脳(本能)への慈悲

おかげさま104で、2年間で、本日138記事目になりました。かずたま/数霊で、抜群138です。是非とも、人類生命学を共に学習しましょう。










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