無知の代わりに「真理」を、闇の代わりに「光」を選択し、憎しみ、怒り、プライド、悪意、欲、利己心を放棄するということです。
『I<わたし>真実と主観性』第6章悟りの部分を、3回に分けて投稿しています。今回が、最後の部分P169~P172です。
霊的探究/真理探究の入り口をひとつずつ、いろんな方法で創造していっているので、是非、入り口を開けてみてください。
霊的探究/真理探究は、覚醒、悟りの境地に到達しない限り、すべての人が生きている間続くのだと思います。死んだら気づいて、輪廻転生して、また、気づくまでの繰り返しをやっているのだと思っています。生まれ持った真理にたどり着くには、動物脳(本能)=自我(エゴ)の影響の正体をみやぶらないと、たどり着けません。動物脳(本能)=自我(エゴ)は、ほんとうのわたしではありません。ほんとうのわたしは、愛が基盤の気づいている心の立ち位置です。無意識でやっていることを、意識にあげることが必要になってきます。無意識と【動物脳(本能)=自我(エゴ)】はセットになっているそうです。だから、自分ではなかなか気づけないという構造。 カルマは無意識と置き換えてOKだそうです。 一人ひとりのカルマの違いで体験は違ってきますが、無意識+【動物脳(本能)=自我(エゴ)】の怖れが基盤の選択ではなく、愛が基盤の気づいている心の立ち位置の選択を意識的にやれるのが、愛、喜び、平和の地球を具現化するために、人間に生まれた使命であり醍醐味だと思います。
『I<わたし>真実と主観性』P169~P172
※2022/9/18 KIN123 追記 耳で聴いて学習ができました。後編。
【Q:自我(エゴ)のコンテント(内容/中身)だけでなく、自我(エゴ)の構造そのものが主な障害となっているのでしょうか?】
A:その通りです。しかし、心(マインド)がこのことをよく理解し、自我(エゴ)のコンテント(内容/中身)を洗い直し、そのメカニズムを認識することで、わたしたちは霊的に成長することができます。一度そのことに気づけば、もう二度と自我(エゴ)に”振り回される”ことはなくなります。この成長の様子は、あの有名な禅の”十牛図”にも描かれています。最初の図の中に登場する自我(エゴ)は、野生の動物そのものですが、次の場面では飼いならされて従順です。次の段階では、自我(エゴ)は超越され、最終場面では消えてなくなっています。
【Q:意識が覚醒の状態まで成長するために必要な条件をまとめてもらえますか?】
まずは、自我(エゴ)が習慣的に立ち位置を用いることを認識することです。けれども、ほとんどの初心者はそれに気がつきません。そして立ち位置は、自動的に対の二元性を作り出します。この時点で、心(マインド)は知覚の世界を創造し、それはレンズとなって物事の真意や重要性を歪めたり、拡大したり、減じたりします。この知覚は、さまざまな価値観や信条の産物であり、不要なフィルターとなって働きます。こうして、二元的な立ち位置は本質を取り逃してしまうのです。
また、内側にはソフトウェアが組み込まれており、入ってくる情報を瞬時に編集してしまいます。そして、真実は不確かなものとなり、知覚のスクリーンの後ろに隠されてしまいます。このように自己は、知覚され編集をかけられた情報の中で生きているのです。この全行程は、わずか一万分の一秒で行われると観測されています。この知覚の編集機能は、知性や、とりわけ重要な働きをする記憶を総動員して、情報の意味を翻訳してしまいます。
【Q:自我(エゴ)の複雑な構造や機能、また知覚を自動的に編集するという習性を知ると、それを超越するのはほとんど不可能なように思えるのですが。】
A:自我(エゴ)の構造と機能がわかれば、その傾向が認識できるはずです。それは瞑想などによって、経験的に明らかとなります。目撃者/観察者という非個人的な目線から、自我(エゴ)がどのように動いているのかを観察します。すると<わたし>はプログラムのコンテント(内容/中身)やデータではなく、コンテント(内容/中身)の数段階前の非個人的なフィールドであるという気づきに至ります。わたしは当事者、あるいは主体というよりは、むしろ観察者だったことに気づくのです。
何世紀にもわたって、数多くの霊的な実践法とテクニックが、自我(エゴ)と、その有限で知覚的な二元性の世界への同一化を断ち切るために開発されてきました。また、意識の霊的な本質についても明かされてきました。たった一つの真実の情報でも、膨大な数の誤った概念や立ち位置を取り消す力を秘めています。こうした霊的な情報は、偉大な聖者や教師、アバターの「自己」から発する高波動のエネルギーに包まれているので、自我(エゴ)の脆弱なエネルギーフィールドよりもはるかに大きな力を持っているのです。
「自己」がコンテクスト(文脈/状況)であり、自己がコンテント(内容/中身)だということをに認識しただけでも飛躍的な進歩を遂げたことになります。
ナイーブな探究者は、単にこのコンテント(内容/中身)をいじくりまわしているにすぎません。人生は、いつか(死後)どこか(天国)で、あるいは善徳やよいカルマを積んだ末の来世で待っていると信じられている神との約束を果たすため、自我(エゴ)と罪を克服するという奮闘のうちに費やされているのです。
【Q:霊的な成長はゆっくりだったり突如速まったりと、まったく予想がつかないように思えます。】
A:祈りとともに心から献身し、謙虚さを持つことで、成長を速めることができます。時間の経過が気になるのは、結果を求めるからです。また、自我(エゴ)のエネルギーから、”切り離された”後でも、その影響が完全に消滅するまでにはしばらく時間がかかります。それはまるで、巨大なタンクを持った大型船が、エンジンを止めた後でも、本当に静止するまでの数マイル移動するようなものです。自我(エゴ)はたいてい、段階的に崩壊するものです。自我(エゴ)が本当の自己であるという信念が消え始めたとき、自我(エゴ)の崩壊は始まっています。自我(エゴ)に対する忠誠心が究極の神に向けられたとき、そこに空間ができます。その空間の中に、「聖霊」として、「神の恩寵」が流れ込むのです。
【Q:この世のものを放棄するとはどういうことでしょうか。霊的な教えの中には、それが必要な要素であると説くものもありますが。】
A:確かに霊的な探究には、通常の世界から完全に身を引いて隠遁したり、沈黙の行をしたり、修道士になるという伝統があります。また歴史を通じて、修道士(僧)や修道女(尼僧)の禁欲や質素さ、貞節、謙虚さ、奉仕、簡素さを要する霊的な献身生活に、人々は尊敬の念を抱いてきました。普通の霊的な探究者でさえ、リトリートに参加したときなど、さまざまな場面において、これらの一部あるいはすべての要素を必要とします。この世の執着を手放し、誘惑の多い世間から身を引いて、静かで落ち着いたライフスタイルを送ることのできる場所に移ることもよくあります。
最も広くかつ基本的な意味において、放棄とは、真理の実現と「神の真実」を遠ざける、あらゆる幻想や障害を捨て去るということです。つまり神に続く道を歩むということは、虚偽を放棄し、愛と平和、神聖さ、思いやり、赦し、慈悲、慈善の道に寄与するということです。無知の代わりに「真理」を、闇の代わりに「光」を選択し、憎しみ、怒り、プライド、悪意、欲、利己心を放棄するということです。さらに放棄とは、非難がましい二元性の誘惑を退け、二元論に陥ることなく、”対立する極”という立ち位置の罠から自由になるということです。最もシンプルな放棄は、辞退あるいは余計なものを受け取らないことから始まります。”上昇する”ことは”下降するものと戦う”ことではなく、単にそれ以外のものを退けることにほかなりません。
利己心は、動物脳(本能)=自我(エゴ)=考える心であり、ほんとうの<わたし>ではないことに、気づけるかが重要なカギです。
腑に落とすとは、主観で体験しないと分からないそうです。分かりかけた人たちが、分かりかけようとしている人たちに、無条件の愛で伝えることを、繰り返し繰り返しやって行きましょう。
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