菱岡憲司

日本近世文学研究者です。分野横断的な出会いを期待してます。「鵺学問もっともよし、乞食袋…

菱岡憲司

日本近世文学研究者です。分野横断的な出会いを期待してます。「鵺学問もっともよし、乞食袋のごとく学問をせよ」。著書『大才子 小津久足―伊勢商人の蔵書・国学・紀行文―』(中公選書、第45回サントリー学芸賞)、『小津久足の文事』(ぺりかん社)など。

最近の記事

デスクワークとフィールドワーク

せっかくの滞在研修なので、この半年のあいだは、読む暇があったら歩こう、と普通の文系研究者だったら音をあげるような、スパルタンなフィールドワークをしております。 なるべくバスや電車も使わずに歩くことにしてますから、必然的に一日に歩く距離は、かなりのものに。もっとも、過去にフルマラソンを走った経験がありますから、42.195キロぐらいだったら、走らないで歩けるんだからどうってことないか、とちょっと距離の感覚がバカになっています。 ところで先日、滞在研修中ながら、オムニバス授業

    • 名所と旧跡

      名所旧跡、とともすればいっしょにされがちな名所と旧跡(古跡)ですが、よく考えれば(よく考えなくても)別物です。 定義の厳密さはここでは置くとして、名所は、景色のよいところ、有名なところである一方、旧跡(古跡)は、歴史的な出来事などがあった場所です。 そして名所かつ古跡というところもありますが、なにしろ「見ればわかる」絶景も多い名所の方が、予備知識がいらない分、訴えかける力はつよい。とくに「映え」が席巻するSNSばやりの現代は、その傾向に拍車がかかっているでしょう。 しか

      • 俊成社

        京都駅から烏丸通をずっと北上し、ビル群なかを歩いていると、松原通にさしかかるころ(要するに松原通烏丸下る)、あれ、こんなところに社が、とホテルのビルに作りつけで組み込まれているのが、俊成社です。 こういう作りはめずらしいなぁ、と思いますが、久足の紀行文を読むと、さもありなん、という事情が知れます。 久足は文政11年(1828)に、当時、紙商人の家の庭にあった俊成社を訪ねるのですが、「けふはさはりあり」といって断られます。 どうってことない記述に思えますが、11年後の天保

        • 神戸ぶらぶら

          三宮から明石へ歩いたあと、電車で三宮にもどってもう一泊。こうして連泊したので重い荷物を持って歩かずに済んだわけです。 で、せっかくですからそのままホテルに荷物を預けて、移動する夕方まで神戸を散策することにしました。 神戸ぶらぶらといえば、普通は繁華街を歩いて店をめぐるものでしょうが、こちらは久足の跡を追って、基本的に寺社・古墳めぐりです。 久足は文政十二年九月十二日、もう少し進むつもりでしたが、日も暮れてきたので、宿屋ではない人を頼んで泊めてもらいます。そこが、住吉あた

        デスクワークとフィールドワーク

          三宮から明石へ、その2

          敦盛塚を過ぎ、蕎麦を食べて、久足は垂水で一泊します。 現在の敦盛塚から垂水までは、線路脇に大型トラックがビュンビュン通る海沿いの幹線道路があり、歩道は確保されているものの、歩いていると気が休まりません。途中、海釣り公園を経て、垂水に着きました。 久足は、須磨で月を見たかったようですが、須磨には人を宿すところがなく、あっても海から遠いとかねて聞いていたので、垂水に宿ることにしたようです。 夕食を食べ、湯浴みをしたのち、いよいよ念願の月見です。 感動のほどが伝わりますね。

          三宮から明石へ、その2

          三宮から明石へ、その1

          先日、大坂堂島米市場跡をはじめ、その近辺をバリバリ第一線の経済史家に案内していただくという僥倖を得て、生涯の財産となりました。 そのきっかけとなった、久足の記述は、以下のとおり。拙著『大才子 小津久足』(中公選書)の第五章にもとりあげております。 この「伝言ゲーム」がおこなわれた場所は、おそらくこのルート、とその行為の意味を含めて同定して案内してくださり、大興奮でした。 ちなみに、大坂堂島米市場、ひいては経済史を知るためには高槻泰郎『大坂堂島米市場』(講談社現代新書)と

          三宮から明石へ、その1

          京都、大原、三千院抜き、その2

          阿弥陀寺からまた街道を引き返して、久足は勝林寺に向かいます。 ここは再訪で、『月波日記』でも「こゝも山かたつきたる所にて、いとものしづかなるがうへ、しかもよき寺なり」と気に入っています。基本的に閑寂な趣を好みますね。 さて、その次に赴いたところが、ちょっとややこしい。 この融通寺というのが何を指すのか、ちょっと判断がむずかしいのです。いまその名前の寺はなく、隣にあるのは実行院と宝泉院なのですが、これは当時、勝林寺の塔頭だったようなので、ちがうでしょう。 『都名所図会』

          京都、大原、三千院抜き、その2

          京都、大原、三千院抜き、その1

          小津久足は二度、大原を訪れています。一度目は、文政十二年の『月波日記』の旅で、秋の十月四日に訪問。二度目は、天保十三年の『青葉日記』の旅で、こちらは春の四月二十六日です。 大原といえば、「きょうと~おおはら~さんぜんいん」というメロディーが勝手に脳内に再生されてしまいますが(これもどの世代までだろう)、江戸時代、三千院は「梶井門跡」という門跡寺院で、「大原の政所(まんどころ)」と称されていましたから、久足は散策することができません。 というわけで、久足が遊歴したのは、三千

          京都、大原、三千院抜き、その1

          地獄越と安土城址

          彦根に泊まったからには、久足が信仰する多賀大社に参らなければ。 命拾いした久足は、久足は多賀大社の別当弟子分として、十歳まで髪を置かせずに育てられたそうな。 彦根からは味のある近江鉄道に乗って赴きました。以前、Aさんに連れてきていただいたので、訪れるのは二度目です。 さあ、そこからまた近江鉄道に乗って五箇荘へ。 はじめて来ましたが、落ち着いたいい町並みですね。 ここにある外村繁(とのむら・しげる)邸も訪問。彼の小説を読んでみたいと思いつつ、いま絶版で手に入らないので

          地獄越と安土城址

          正明寺から石塔寺へ

          京都滞在のご挨拶もかねて、彦根在住のAさんのもとへ。となれば、近辺の「久足史跡」(なんてね)を訪ねなければ。 そこでJRと近江鉄道を乗り継いで日野駅に降り立つ。日野商人のいとなみをしのびつつ町並みを歩き、日野商人館などに寄りながらも、目当ては正明寺です。 ここでいう山王社というのは、井林(いばやし)神社で、折しも祭りの準備の最中でした。 そこから歩いてすぐ、正明寺です。 気持ちのいい参道を通って門にいたりますが、閑寂ないいお寺ですね。久足のいう額もしっかり残ってます。

          正明寺から石塔寺へ

          円通寺の住僧

          正伝寺の庭には感動しましたが、借景として比叡山をとりいれるというのは、それが可能な場所であれば、庭造りのポイントなんだな、と知りました。 ちなみに久足は正伝寺にも訪れておりまして、簡単ながら、以下のように記しています。 簡単だなぁ(名前まちがえているし)。他の紀行文にもないか、確認してみよう。 西加茂では、霊源寺に筆を割いています。 久足の跡を追って京都を歩くと、皇室敬慕という基準が歴然としてあるな、と実感します。とくに後水尾天皇や光格天皇など、文事に熱心だった天皇へ

          円通寺の住僧

          久足も見た修学院離宮

          詩仙堂界隈を見て歩き、せめて場所だけでも確認しようと思って修学院離宮に行くと、なんと当日申し込みでも見ることでき、しかもいままさに観覧ツアーがはじまろうというところ。もちろん、これ幸いと参加しました。 いやはや、圧巻です。京都にはすばらしい庭があまたありますが、後水尾天皇のお好みは格別ですね。 まさに別天地です。 下・中・上をつなぐ道もすばらしく、棚田を縫って歩きながら借景の叡山をのぞむのも格別でした。 さて、さすがの久足も、離宮、すなわち行宮の前に行きこそすれ、なか

          久足も見た修学院離宮

          都の花見

          半年間のサバティカル、前期と後期とどちらにするかと考えたとき、暑いのと寒いのとどちらが嫌か、となると、やはり九州育ちの人間としては寒い方が嫌なので、前期がいいかなぁ、とまず思います。 京都の暑さ寒さは尋常じゃないよ、といろいろな人におどかされましたが、山口も盆地で似たようなところがありますので、さほど変わらないだろうな、と案外、高をくくっております(実際、気温を見ると近いです)。 もちろん校務ほか、諸々の理由で前期のサバティカルに決めたのですが、その大きな理由のひとつとし

          京都サバティカルことはじめ

          4月から半年間、京都にサバティカルで滞在します。 なぜ京都か。 それは、小津久足にとって京都とはなんだったのか、を探究するためです。久足は、じつに(全46作中)21作品もの紀行文で京都を訪れているのですね。 どうしてこれほど久足は京都を愛したのか。それを知るためには、紀行文をはじめ、久足著作の精読をすることはもちろん有効ですが、地理のことは現地に足を運ばなければわからない、と机上の学問を批判した久足ですから、それだけでは限界があります。これはもう、久足の訪れたところを、

          京都サバティカルことはじめ

          青山英正編『石水博物館所蔵 岡田屋嘉七・城戸市右衛門他書肆書簡集』(和泉書院)

          青山英正さんが編纂した『石水博物館所蔵 岡田屋嘉七・城戸市右衛門他書肆書簡集』(和泉書院)が出ました。 江戸時代の本屋さんが、上得意で蔵書家の顧客である川喜田遠里と石水へ向けて出した手紙なんですから、これが面白くないはずがない。 しかも数が圧倒的。江戸の岡田屋嘉七(あの小津桂窓(久足)が「日本一」「海内一」と評した本屋)からの手紙が65点、京都の城戸市右衛門からが180点! 大坂の藤屋善七からが16点、ほか6書肆の少ないながら(いや少ないからこそ)貴重な手紙が計10点、す

          青山英正編『石水博物館所蔵 岡田屋嘉七・城戸市右衛門他書肆書簡集』(和泉書院)

          豆腐三昧

          4月からサバティカルで京都に滞在するのですが、その半年間を幸福なものにするため、公務のかたわら、抱えている原稿仕事を死ぬ気でやりまして、ようやく、ひとまず手放すことができました。まだ、やるべきことはいろいろありますが、まあ、一段落です。 そんな私がたのしみにしていたのが、毎食の豆腐です。 豆腐! 若いときはまったく興味がなく、そもそも好きでもきらいでもなかったので、あったら食べるけどわざわざ自分で買い求めない、というものでしたが、歳を重ねるにつれて、豆乳に納豆、そして豆