CD:ブラック・スワン~ヴィラ=ロボス チェロとピアノのための作品集

ヴィラ=ロボスの音楽って、みんなが言うほど熱くないと思う。

とてもクールな音楽。

実際、今まで聴いた演奏の中で、ヴィラ=ロボスの音楽を、一番熱演していたのは、ソビエトの指揮者による録音だった。

相対性に、熱帯に住む人たちの意識と言うものは、醒めている、そんな気がしないでもない。

ノリがよいのと、熱いのとは、どうも事情が違うのかも知れない。 

それは、邦人の演奏による、チェロ作品集を聴いても、やっぱり、変わることのない印象だった。 

ヴィラ=ロボスの音楽は、本命ではないけれども、まあまあ、聴くようにしている。

交響曲の全集録音が既に2組完成されているのは、勿論、両方手元にあるし、弦楽四重奏の全集録音も、少なくとも3組あるのだけれども、そちらも三様取り揃えてある。

ただ、取り出す機会が多いかと言えば、正直に言えば、殆どない。

まぁ、どんなに好きなアルバムも、年に一度聴くかどうか、くらいの頻度でしか耳にしない性分だから、ヴィラ=ロボスに限った話ではないのだけれども、“嵌まりそうで微妙に嵌まらない、けれども、やっぱり気になる”という立ち位置を、もう四五年も彷徨いている。

そもそも、ヴィラ=ロボスを聴かないといけない、と思うようになったのは、ヒナステラの音楽に、心底魅了された事が切っ掛けだった。

アルゼンチンの雄、ヒナステラを聴く以上は、ブラジルの怪物、ヴィラ=ロボスを無視する訳にも参らない、という良心からで、沸き上がる衝動に駆られてのものではなかったから、実際には、そんなに好きじゃないのかも知れない。

バッハの音楽は聴くけど、ヴィヴァルディの音楽は聴かずに、平然としていられるのだから、ヒナステラだけ聴いて、ヴィラ=ロボスはスルーしても構わない筈なのに、これだけけ、未だに絡んでしまうのは、ヴィラ=ロボスという人の音楽が、一向に、得たいが知れないままだから、そんな気がしている。

ヴィヴァルディの音楽は、とっても天才な人の書いたとってもよく出来た音楽と、まぁ、そうでもないものとがあるにはせよ、兎に角、素晴らしいのは承知したから、それ以来、余り聴かずに済んでいる。

だから、同時代の、好きな人の好きな曲だけ、安心して聴いている。

けれども、ヴィラ=ロボスという人に対しては、そうも言えないものだから、ヒナステラだけ、聴いていると、何だか、名前がちらついて落ち着かない。

いっそ、早く嫌いになってしまいたい奴だ。

けれども、やっぱり、放っておけない音楽を書く人だ。

このチェロ作品集の演奏が、世間でどの様に評価されいるのか、未だ確認していないのだけれども、ブラジルの熱に当てられるか、若しくは、東洋人には南米の熱情は再現し得ないとか、きっと地政学的な見識が幾分かは働いた、正攻法というか、全うな聴き方がなされて行くのだろう、と思う。

実際、真正面から聴かれる事に、何の恐れも抱かぬ強かな演奏に聴こえた。

それと同時に、とてもヨーロッパ的な音楽だな、とも聴こえた。

広義のクラシック音楽は、全てヨーロッパ的しかあり得ないから、当たり前の事なのだけども、とても文化的というか、サロン的というか、丁寧に濾しとった、純度の高い音楽だと思った。

雑味がない、という奴だ。

それが、ヴィラ=ロボスらしくなかった、というなら、話は多分、早いのだけれども、実際には正反対で、何だか、ヴィラ=ロボスらしいな、という想いが沸いたので、ちょっと、困った事になっている。

音楽を国別、民族別の眼鏡で見るのは、決して悪いことではないし、だからこそ、今年もショパン・コンクールは、ポーランドで開催される訳でもある。

ただ、ショパンの音楽も、大半がそうなのだけど、極東に住まう一音楽聴受者には、ポーランドの魂なんえ殆ど意識し得なくて、何だか根無し草な音楽だな、と聴く事の方が多い。

だから、ショパンは好んで聴かないのだけれども、マヅルカだけはとても好きで、あれは、作品としてはそこまで立派ではないのかも知れないのだけれども、土の薫りが微かにあって、ショパンも気取ってないから、東洋人にもすんなり身に染みる。

ヴィラ=ロボスにとって、チェロという楽器は、特別な楽器であったという事は、承知しているし、バッハと同じくらいにショーロを大切にしていた事も、十分、作品に反映されてもいるとも見える。

けれども、ヴィラ=ロボスがチェロの為に遺した作品は、殆ど、ヨーロッパを向いている、そんな気がしないでもなかった。

実際、パリにも住んでいた訳で、国際情勢が許すなら、ヒナステラ同様、終の棲家は、欧州だったとも限らない。

何れにせのよ、このアルバム、フランスの音楽、という気がした。

ドビュッシーとかラヴェルも居たけど、ミヨーやサティがいて、モンポウもレスピーギもいた、フランスの音楽。

そういう心構えで聴かないと、物足りない音楽だな、という気がした。

後先考えずに、アマゾンの奥地へ音楽採集に出掛けたヴィラ=ロボスの姿は、余り鮮明には現れない。

ヴィラ=ロボスの、何と言うか、ヴィヴァルディ的な天才性の部分が全面に押し出された音楽だな、と思う。

だから、これはもう、安心して聴けるというか、良いのが分かったから、もっと違う切り口のヴィラ=ロボスを聴きたいな、という想いが沸いた。

世間の人が、どんな風に音楽と付き合っているのかは、私にはよく解らないのだけれども、素晴らしい音楽、明らかに天才の音楽、歴史的な名作、そういうより正確な日本語で言えばテッパン(?)とでも呼ばれるものに対しては、個人的には余り興味が沸かないものだから、ここまで、ヴィラ=ロボスの正体を明かされてしまうと、一期一会という事になってしまう。

レコードを聴く愉しみ、それもまた人によって千差万別であればこそ、私の場合は、それはもう、ずぶずぶでぐだぐだな関係が至高だと考えている。

何だか、“ブラック・スワン”というアルバムに、モニュメンタルな役割を見出だしてしまって、これでもう、安心して、ヴィラ=ロボスのマヅルカを探す旅なに出られるぞ、そんな気分に襲われた。

そういう役割は、私の人生に限って言えば、得てして、名盤と言われるものが担って行く。

間違いのないもの。そういうものは、コレクターには愛されるかも知れないけど、収集家にとっては、記念碑として祀って終い、という気がする。

やっぱり、ヴィラ=ロボスの音楽って、本質的にはとってもクールなんじゃないのかな。

それを真正面から証明した画期的な一枚。

ヴィラ=ロボスがチェロの為に書いた作品のアルバムは、他にも幾つもあるけど、こんなに凛然とした態度の演奏ってあったかな。

もっと、ブラジル風にぼやかしていやしなかったかな。

兎に角、純度が高いから、上手物の音楽だと思う。

ヴィヴァルディで言えば作品3とか、ショパンならバラードとか。

ヴィラ=ロボスには、もっと下らない音楽を書いて欲しいんだ。

だから、シンフォニーとカルテットが、私の中では本丸という気がしている。

一般的には、ヴィラ=ロボスの作品としては、評価が微妙な立ち位置にあるものだけど、形式の制約に縛られて、どこか自由に振る舞えずにいるヴィラ=ロボスこそ、本当に偉いんだ、凄いんだ、と。

20世紀の作曲家で一番愛しいのはミャスコフスキーだ、というのもそこにある。

通低するもの。それは人によって必ず違うし、用意に消し去る事の出来ない癖でもある。

聴き手としても、それを私は大切にしたいし、好きな作家を選ぶ上でも、そこを重視して聴いている、積もりでもある。

ヴィラ=ロボスの音楽は、恐らくは、ミヨーやエネスクなんかの音楽よりも、解りやすいものとして受容されているし、愛されてもいる。

そういう、ヴィラ=ロボスの一面が、私はどうも苦手だ。

だって、物凄く、変な音楽を書く人じゃない、ヴィラ=ロボスって。

だから、神棚に祭り上げないで、否、平生はそれでもよいけれども、コンスタントに大地に引き摺り降ろして、或いはお出座し頂いて、あわよくば、一緒に踊ってみたいのだ。

そういう熱が、ヴィラ=ロボスの音楽には、確かにありそうなんだけど、聴き方がまずいのか、一向に出そうで出ない。        

だからこそ、こうして、アルバムを追い掛け続ける事にもなるのだから、その方が幸せか。 

ヴィラ=ロボスの奥義も、或いはそこにあるのかも。

兎に角、考えさせられる一枚だった。

また、よくそれに堪えるんだ。 





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