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19世紀、大英帝国は「世界の工場」とも呼ばれ、全世界に影響力を持っていた。フランス革命を成し遂げたフランスも、ナポレオン三世の下で勢力を広げていた。

幕末~明治維新の頃の日本も、この2つの国の干渉を受けている。薩摩藩とイギリスは「薩英戦争」で戦い、後に交流を深めた。徳川慶喜たち幕府側は、フランスの援助を受けて幕政を改革しようとした。

日本はこの時、まさに生まれ変わろうとしていた。事実、明治維新が起き、新政府が作られ、1871年には「廃藩置県」を行った。

それと同じ1871年に、生まれた国がある。ドイツ帝国である。

ドイツも日本と同じく、たくさんの諸侯がばらばらに政治を行っていた。イギリスやフランスに比べ、力を合わせて頑張ろう、という雰囲気ではなかった。

そのばらばらのドイツの統一を主導したのが、「鉄血宰相」と呼ばれたビスマルクだ。身長190センチ、体重100キロ超えの偉丈夫である。

1815年、ドイツの有力な国の1つ「プロイセン」に生まれた彼は、1861年に首相に就任した。その年の演説、『現下の大問題の解決は、演説や多数決によってではなく…鉄と血によってなされるのです』、この演説が「鉄血演説」と呼ばれ、鉄血宰相という呼び名につながった。

鉄=武器、血=兵士の重視。議論ではなく、力で解決する。…そういったイメージが先行する人物だろう。

ところが彼の業績を見ると、必ずしも力技ばかりの政治家ではない、ということがわかる。ドイツで武力をたくさん行使した人物と言えば、真っ先に思い浮かぶのは「アドルフ・ヒトラー」だ。ヒトラーは、第二次世界大戦を引き起こし、そして敗れた。

ビスマルクは、彼とは違った。

武力を効果的に使い、しかし武力に溺れることはなく、外交によって最大限の効果を上げる。国家間のパワーバランスを調整することに長けていた政治家なのだ。

彼の政治的な手腕を象徴する事件として、1870年に起こった「エムス電報事件」という事件がある。

これは、ビスマルクがうまく電報を省略して編集して、国内外に情報をリークし、プロイセンとフランスの敵対心を煽って戦争に持ち込んだものだ、と言われている。今で言うなら「マスコミ操作」だ。

しかし彼は、嘘は言っていない。『非礼なフランス大使が、プロイセン国王を怒らせて、追い返された』。簡潔に事実を述べただけ。実際には、そこまで劇的な決裂ではなかった、という。だが両国の民衆は、ビスマルクの思惑通り、さも戦争間近の劇的な決裂であるかのように、この事件の情報を受け取ってしまった。

彼はニヤリと笑っただろう。時は折りしも7/14であった。フランスではとても大事な「革命記念日」である。フランス上院は世論に押されて、満場一致で開戦を決意することになった。プロイセンは表向き「しょうがなく」この宣戦を受けて立った。「普仏戦争」の始まりである。

共通の敵は、仲間を一致団結させる。

ばらばらだったドイツは、フランスという強敵を前に、団結した。プロイセンは北ドイツの諸王国だけでなく、南ドイツのバーデン大公国・ヴュルテンベルク王国・バイエルン王国などとも同盟を結んで、フランスに圧勝。フランスのナポレオン三世は、退位に追い込まれた。その勝利の勢いのまま、1871年、ドイツ帝国が成立した。成立を宣言した場所は、ドイツ国内ではなく、フランスのパリにあるヴェルサイユ宮殿においてだった。最大級の屈辱。フランス国民の怒りは、いかばかりだっただろうか。

この勝利により、新生ドイツ帝国は一躍ヨーロッパの強国に躍り出た。「大英帝国」として世界の各地で植民地を広げていたイギリスは、ヨーロッパ諸国に対しては「光栄ある孤立」という政策をとっていたため、ドイツはその存在感を増していく。ドイツに恨みを持つフランスは、ビスマルクの「フランス孤立化政策」により、力を発揮できずにいた。

ドイツ軍が強かった理由の1つは、「国民皆兵」の制度にあったと言われる。この勝利を受け、日本やロシアでも導入された。日本からは伊藤博文がやってきて、憲法や政治の仕組みを学んだ。その後、伊藤はプロイセン流の憲法を日本で作り、「日本のビスマルク」と呼ばれた。ビスマルクにとっては、自分の模倣者が極東にまでいるということで満足だったに違いない。

しかし、彼の権力にも、終わりがやってくる。

1888年、長年仕えてきたヴィルヘルム1世が、90歳で亡くなったのである。次の皇帝フリードリヒ3世は病気がち。即位後99日で亡くなった。その次に即位したのは、29歳のヴィルヘルム2世だった。

ビスマルクはこの時、すでに70歳半ばになっている。若き皇帝と、老いた首相。世代が違う。感覚も違う。徐々にすれ違っていくのも、無理はない。1890年、彼は辞表を提出した。日本で言えば、第1回帝国議会が開かれた年である。

辞任後の失意の中、彼は1898年に死去する。その後、「ビスマルク体制」とも呼ばれたヨーロッパ諸国のパワーバランスは、若き皇帝の無鉄砲な外交政策によって、徐々に崩れていった。フランスは孤立化を脱出して「ドイツ包囲網」が形成されていき、のちに第一次世界大戦にまで発展していくことになるのだ。

ビスマルクは、自分が行ってきた外交努力が壊されていくのを、草葉の陰から見て嘆いていたに違いない。

強国ドイツ帝国を作り上げたビスマルク。彼も賛否両論うずまく政治家だったと言える。

結果から言えば、彼が強いドイツを作らなければ、世界大戦は起きていなかった「かもしれない」し、「ドイツ・ファースト」の外交・政治手法や情報操作は、真っ白で純白なものとは到底言えないだろう。しかし、彼の生き様を知ることによって、私たちは「国際政治というものは一筋縄でいかない」「引き際や後継者が大事」という教訓を得ることができる。これもまた事実である。


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