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「関ケ原の戦い」は有名。比べて、
「小牧・長久手の戦い」は少しマニアック。
こまき・ながくてのたたかい、です。

◆「二か所というのが紛らわしい」
◆「小牧ってどこ? 長久手ってどこ?」
◆「誰と誰が戦ったんでしたっけ?」
◆「結局、勝敗がつかなかったのでは…」

そんな風に考えてしまう人も、多い。

ですが実はこの戦い、
関ケ原の戦いに負けず劣らずの
「天下分け目の大決戦」だったのです。

戦国時代の三英傑と言えば、
信長・秀吉・家康!ですよね。

ですが「信長 VS 秀吉」は、ない。
秀吉は信長の家臣でしたから。
さらに「信長 VS 家康」も、ない。
同盟者同士だからです。
しかし「秀吉 VS 家康」の戦いは、あった。
これが小牧・長久手の戦い。

後の天下人同士のガチバトルですよ?
「頂上決戦」と言ってもいい。
それぞれ、持ち味を発揮して戦った。

はっきり言って「関ケ原の戦い」の
「家康 VS 石田三成(総大将は毛利)」
より、総大将同士のレベルは上です。
「達人 VS 達人」!
「ミスター戦国時代」同士の戦い!

将棋で言えば、
名人VS竜王レベルの戦い
なんです。
…ゆえに、ちょっとわかりづらい。
関ケ原の戦いのように、
一日で終わったわけでもない。

本記事では、色々な側面から
この戦いを書いてみます。

①そもそも、どこ?

「小牧」(こまき)は、
愛知県の名古屋の北のあたり。
信長は美濃の中心の
稲葉山城に本拠地を移したので、
小牧の城は、廃城になっていました。

一方、「長久手」(ながくて)は、
愛知県の名古屋の東のあたり。

◆名古屋の北→名古屋の東

…場所移動をしています。
つまり「小牧・長久手の戦い」は、
最初は名古屋の北のあたり、
次に名古屋の東のあたりに
主戦場が移った戦いなのです。

②なぜ移動したのか?

天下統一を目指した秀吉に、
織田信雄・徳川家康の連合軍が
「ちょっと待った」をかけた形で、
戦いが始まりました。

1584年。
前年にライバル柴田勝家を討ち滅ぼして、
秀吉、ノリにノッています。
その軍勢、およそ十万人!

対する信雄・家康勢、およそ三万人程度。
…まともに戦っては、勝ち目がない!

そこで家康、廃城となっていた小牧に
砦や土塁を築き、守りを固める。
小牧で膠着状態、にらみあいます。

これ、秀吉にとっては、良くない。

なぜなら、柴田勝家は倒したとはいえ、
いつ周りが攻めてくるかわからないから。

現に家康は、周りの
紀州・四国・北陸・関東などに
書状を送って「秀吉包囲網」を
形成しようとしていました。

長期戦に持ち込むのが、家康の作戦です。

「はやく家康を倒さなければ…」
秀吉、焦る。
そこで考えたのが、家康の本拠地、
三河(名古屋のもっと東)への奇襲作戦。
次の四人に兵を預けて、出撃させました。

◆一番隊:池田恒興 (5,000人)
◆二番隊:森長可(3,000人)
◆三番隊:堀秀政(3,000人)
◆四番隊:羽柴秀次(9,000人)

…この作戦を、家康は察知し、
密かに兵を伏せて、奇襲を狙います。
奇襲部隊に、奇襲をかけるんです。

この秀吉の「本拠地奇襲部隊」を
見事に家康が打ち破った場所こそが
長久手、なのです。

③どうやって家康が勝ったのか?

さて、ここで問題。

上記した四隊のうち、
家康はどの部隊に
最初に奇襲をしかけたのでしょう?

…答えは、四番隊。

一番隊の池田軍が城を攻撃している間に、
密かに別動隊を回して、
後方の羽柴秀次軍を攻撃したのです!

「な、なぜこんなところに敵軍が…!?」

動揺した秀次、
慌てて逃げ出してしまいました。
まだ16歳くらいの若輩者です。
「いきなり襲えば、逃げるはずだ」
百戦錬磨の家康の読みが、当たります。

四番隊の秀次軍、壊滅ッ…!

三番隊の堀軍は反撃しますが、
秀次を守ることが大事だ、と判断し、
退却していきました。
(秀次、次の関白になるほど
豊臣家では重要人物ですから)

残るは、一番隊と二番隊のみ!

このように家康は、時間差攻撃により
各個撃破、巧みに敵を分断し、
有利な態勢を作り上げていきます。


その昔「三方ヶ原の戦い」で
武田信玄におびき出されて
ボコられた教訓を活かすかのように…。

とはいえ、まだ勝敗はわかりません。
何しろ秀吉軍、兵力が多いから。

《家康・信雄連合軍》

◆徳川家康本隊(3,300人)
◆井伊直政隊(3,000人)
◆織田信雄隊(3,000人)

《秀吉軍》

◆池田恒興の子の隊(4,000人)
◆森長可隊(3,000人)
◆池田恒興本隊(2,000人)

この両軍が、長久手で激突します。
ただし地の利は、徳川家康にある。
秀吉軍は「アウェイ戦」。
家康は迎え撃つ「ホーム戦」です。

池田恒興の長男、恒興本人、森長可、
秀吉軍の大将が、討ち取られていきます。
池田恒興の次男、池田輝政は、
無念にも退却していきました。

…こうして、長久手での戦いは、
家康の勝利に終わりました。
※兵数は諸説あります。

④百倍返しをする秀吉

ここで終われば、家康の完勝。
しかし、さすがの秀吉、逆襲します。
自分の得意な「人たらし」の能力、
政治力を使って…。

家康と手を結んでいた織田信雄を懐柔、
勝手に講和を結んでしまうのです。


家康、開いた口がふさがらない。悔しい。
もうちょっとだけ頑張れば、
秀吉包囲網で勝てるかもしれないのに…!

戦う大義名分がなくなったために、
家康も、一時、講和に応じました。

なお、その後の秀吉、
「秀吉包囲網」を各個撃破していきます。
紀州攻め、四国攻め、北陸攻め。
気が付くと秀吉に対抗しているのは、
家康と関東の北条氏、東北、九州くらいに。

狭い戦場で家康が行った各個撃破を、
もっと広いスケールで秀吉が行った、
と言ってもいい
でしょう。百倍返し!

「戦術では家康の勝ち。
戦略では、秀吉の勝ち」

言われるゆえんです。

秀吉は、家康を討伐することを
考えていたそうですが、

1586年、天正大地震が発生。
大被害の秀吉側は、和平策に転じ、
家康を自分の家来にすることにしました。
家康は豊臣家のナンバーツーに。
秀吉が死ぬまで、天下取りの野望を
「一時お休み」させるのでした。

以上、小牧・長久手の戦いのお話。

秀吉の大軍勢に一歩も引かなかった家康!
家康に戦場で負けても焦らず、
広い視野で百倍返しした秀吉!

小牧・長久手の戦いは、歴史を左右した
「天下分け目の大決戦」なのです。

もし、ここから教訓を得るなら、

◆「相手が強くてもすぐに降伏せず、
 舐められないよう実力を示しましょう」

◆「たとえ狭い戦場で負けても、
 広い視野で取り戻せばOKです」

◆「仲間が敵と勝手に手を結んで、
 ハシゴを外されないように注意」

◆「ガチバトルでやり合った最強の敵は
 最強の味方にもなります(ベジータ理論)」

といったところでしょうか。

「小牧・長久手の戦い」。
このマニアックな戦いの歴史から、
教訓をお持ち帰りしてみてはいかがでしょう?

◆本記事は、以前に書いた記事を
リライトしたものです。
『小牧・長久手の戦い、実は』

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