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「きっかわひろいえ」と読みます。
戦国~安土桃山~江戸時代のあたりの
マニアックな武将の一人です。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、
また関ヶ原の戦いで家康と戦った
石田三成たちに比べて知名度は低い…。

「どんなことをした人なのでしょう?」

この問いに、私はこう答える。

「関ヶ原の戦いで東軍を勝たせた人です」

そう聞くと、違和感があるかもしれない。
なぜなら、東軍、家康側が勝ったのは、
西軍の「小早川秀秋」が裏切ったからでは?

いや、それだけではないのです。

本記事では、関ヶ原の戦いの
あまり知られざるキーパーソン、
吉川広家について書いてみます。

1561年に生まれ、1625年に死んだ。
彼の父親は、毛利(もうり)の主力の一人、
「吉川元春」という名将でした。
この元春の三男として生まれます。

毛利家と言えば『三本の矢』という
故事が有名ですよね。
広島のサッカーチーム
「サンフレッチェ」もこの故事に
ちなんで名づけられました。

毛利家を中国地方の覇者にした英雄、
「毛利元就」には、三人の子がいた。
毛利隆元、吉川元春、小早川隆景。
この三兄弟が力を合わせて
毛利家を盛り上げていくように…と。

この故事は後世に創られた
「お話」かもしれませんが、事実、
この三兄弟は力を合わせます。

しかし長男の毛利隆元は早くに亡くなり、
元就の孫、毛利輝元が本家の後を継ぐ。
輝元の叔父、吉川元春、小早川隆景は
この輝元をよく補佐しました。

信長が滅んで秀吉の世になると、
豊臣政権を支えていくことで
毛利家の大大名の地位を安定させるのです。
百万石を超える勢力!
後に「五大老」の一人に、輝元は就任します。

…ただ、時代は変わっていく。

1586年、吉川元春は亡くなり、
長男の吉川元長が後を継ぎます。
ところが翌年、
その元長も急逝してしまうのです。

1587年、三男の吉川広家が
吉川家の後を継ぐ
ことになりました。

ずいぶん才能があった人なんでしょうね。
秀吉にも愛されています。
豊臣姓と羽柴の名字を与えられ、
秀吉の養女を正妻に迎えて、
豊臣政権の中でも一目置かれていた。

…同じく毛利本家を支える
小早川家ではそうはいきませんでした。

1594年、小早川隆景は
秀吉の甥を養子に「とらされて」、
小早川家を相続させることになります。
これが、小早川秀秋です。
秀吉に逆らわない、ということを
家を明け渡してまで誓う…。

もう一度、ここまでをまとめましょう。

◆毛利元就の三人の息子:「三本の矢」
◆毛利隆元→毛利輝元(本家)
◆吉川元春→吉川広家(支える)
◆小早川隆景→小早川秀秋(秀吉の甥)

…この毛利元就の孫世代、
輝元、広家、秀秋が
1600年の『関ヶ原の戦い』では
それぞれの役割を担うことになるのです。

1598年、秀吉が死去。
徳川家康と石田三成との政争が始まる。
徐々に「関ヶ原の戦い」に向かっていく。

東の家康に対して、
西の三成が旗頭として仰いだのは
五大老の一人、毛利輝元でした。
石田三成は、総大将ではない。

ただ、総大将の毛利輝元は
関ヶ原には参陣をしておりません。
大坂城で、豊臣秀頼や淀の方と一緒にいる。
あくまで「豊臣家のため」という
大義名分が必要だったから。

実際に毛利軍を率いて
関ヶ原に向かっていったのは、
輝元の後継の「毛利秀元」「吉川広家」
それに関ヶ原の戦いの首謀者の一人、
僧侶の「安国寺恵瓊」でした。

南宮山というところに陣を張ります。

「小早川秀秋」は、毛利軍とは別に、
松尾山というところに陣を張る。

南宮山は、家康本陣の南。
松尾山は、家康本陣の南西。
石田三成たちは家康本陣の西。

ぐるりと東軍を取り囲む陣構え…。
布陣図だけみれば西軍の圧倒的優位…!
家康たちは囲まれていた。

もし毛利軍・吉川軍・小早川軍が
『三本の矢』のように
最初から徳川家康、東軍に向かって
一気に襲い掛かっていれば、おそらく
西軍の勝利に終わっていた
ことでしょう。

歴史は、変わっていました。

…しかし、そうはならなかった。
実は吉川広家、西軍の勝利を
どうしても信じられず、
事前に東軍に「密かに内通していた」。

「毛利軍は表向きは西軍ではあるが、
戦場では戦わず、東軍に協力する。
その代わり、東軍が勝った場合には
毛利家の所領を安堵してもらいたい…」

なんと、西軍の総大将、毛利を支える
吉川広家が内通していた!

毛利秀元は東軍と戦いたかったそうですが、
自分の陣の前に陣取っている
吉川広家が邪魔で、進軍ができなかった。
その影響で、安国寺恵瓊も、その周りの
長束正家も長宗我部盛親も、
動くことができませんでした。

そう、吉川広家は
「自分が動かない」ことによって
大軍の毛利軍を足止めさせ、
周りの西軍も足止めさせて
東軍を勝利に導いたのです。

「戦う」ことではなく、
「戦わない」ことで東軍を勝利に導く…!

長束正家は「早く攻めかかれよ」と
毛利軍本陣に催促しますが、
広家の内通で、秀元は動けない。

「いま、弁当を食べていますので…」

苦しい言い訳を返したそうです。
世に言う『宰相殿の空弁当』
(唐揚げ弁当ではなく、
空の弁当を食べている、つまり
嘘の言い訳、という意味で)

そのうち、南西に陣を張る小早川秀秋が
西軍を裏切って東軍につき、
戦いの大勢は決しました。

戦後、毛利輝元は戦うことなく大坂城を退去。
毛利軍も自国に退却します。
「三本の矢」は、いずれも戦わなかった。

東軍勝利の「隠れた立役者」となった
毛利家は、家康に所領を安堵される…。

そんなわけ、ありませんよね。

合戦後、家康は見事に手の平を返し、
毛利家の所領を没収しようと仕掛けます。

「最初から東軍の味方だと言ってたけど、
今、大坂城を調べてみたらさ、
輝元の花押が押された書状が
たくさん見つかった。ねえ、ナニコレ?
こちらを倒す気満々だったんじゃん?
こりゃ毛利家を許すわけにはいかんな。
毛利輝元の所領、全部ボッシュート!
そのうちの2か国だけ
吉川広家に与えることにします

家康側からそう言われた広家。
どうしたでしょうか?

「…それでは話が違います。
毛利本家を裏切るわけにはいきません。
私は受け取れません。皆も納得しません。
その2か国は、輝元にあげてください

こうして百万国以上の大大名だった
毛利家は、所領を大幅に減らし、
約三十万国へと減封されたのでした。

これが幕末の「長州藩」の元。
今でいう山口県になります。


最後に、まとめます。

本記事では関ヶ原の戦いにおける
あまり知られざるキーパーソン、
吉川広家について書きました。

もし広家がいなかったら、
西軍は勝っていたかもしれないし、
逆に負けて、毛利家滅亡、と
なっていたのかもしれない。

いずれにせよ、関ケ原の戦いと
その後に広家が取った行動は、
後の歴史に大きく影響を与えたのです。

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