見出し画像

伊藤公(伊藤博文)は最初から慎重に打つ。
大隈侯(大隈重信)は何も考えずに打つ。


局面が不利になると、大隈侯は初めて考える。
もとより頭脳の良い人である。
妙な手を考え出し、血路を拓くことはある。
しかし大隈侯が考える時には、
既に局面が収拾できない状態だ。
結局、負け碁になることが多かった。

伊藤公は、初めから定石通りに、
慎重に考えて打つから、破綻が少ない。
大隈侯は難局にならなければ知恵を出さない。
天才的な閃きはあっても、結局は敗ける。
これは両君の性格における著しい違いである」

これは、尾崎行雄という
明治~昭和時代の政治家が、
「囲碁」の例えを使って評した言葉。
(わかりやすいようリライトしています)

尾崎は、福沢諭吉の慶應義塾の出身。
伊藤博文、大隈重信、両方の人物を
政敵や同志として近くで見てきましたから、
まず的を射ている評ではないでしょうか?

大隈重信。おおくましげのぶ。
1838年~1922年。
明治・大正の政治家、教育家。
「早稲田大学」の創設者でもあります。

…ただ、具体的に何をした人か、と言えば
パッと思いつきにくいかもしれない。
伊藤博文が「初代内閣総理大臣!」と
パッと出てくるのに対して、好対照。
慎重で根回ししつつ一歩ずつ進む、伊藤!
閃きと機知で難局を解決する天才、大隈!


本記事では、伊藤博文と対比しつつ、
早稲田大学をつくった大隈の歩みについて
(私なりに取捨選択しながら)
概略を書いてみたい、と思います。

彼は今の佐賀県、肥前国に生まれました。
江戸時代の末、幕末の頃です。
幕末の肥前、佐賀藩と言えば、
はっきり言って「狂気の教育藩」でした。

藩主は「肥前の妖怪」と言われた
鍋島直正(閑叟)という人。
彼は家臣たちに、無理やり勉強させた。
文字通り「勉」学を「強」いたのです。

上級家臣から下級武士まで「分け隔てなく」
「全藩士」の子弟の入学を求める…。
優秀な成績なら、身分に関わらずに抜擢!
しかし25歳までに「免状」を得るなど
成果を収めなければ、家禄減俸、採用しない。

…江戸時代の話ですよ?
家柄が大事な時代。生まれが良ければ
ぼんくらでも上級藩士、家老になれた時代。
そんな時代に
「勉強ができなければ、人としてダメ」
と言ってのけた藩主なのでした。

藩校「弘道館」を充実させる。
敷地を3倍、予算を7倍にした。
「蘭学寮」も設置します。
次男や三男、家格の低い藩士の子弟から
秀才を選んで、洋学の物理や化学を
死ぬ気で勉強させた。

…この全藩を上げての「狂気の教育藩」が、
明治維新の「薩長土肥」のうちの「肥」
圧倒的な技術力を持つ藩として活躍し、
維新後も人材を輩出していく。

さて、大隈重信。幼名、八太郎。
上級藩士の家柄でした。
7歳で、藩校の弘道館に入学します。

ところが、この藩校は
「朱子学」中心の儒教教育だった。
いやがるんです。学びたくない。
同志とともに藩校改革を訴え、
何と大隈、退学になってしまいました。

どうする、大隈?
…自分で学習するんです。自学自習。

のちに藩校に復学しますが、退学したため、
朱子学の勉強はもうしません(できません)。
その代わり興味のある洋学の勉強に励んだ。

これが、うまくいく。

1861年には藩主直正にオランダ憲法を講義!
蘭学寮を合併した弘道館の教授に就任!
1862年、立教大学の創設者、
ウィリアムズの私塾で英語を学ぶ!
1867年、フルベッキに英学を学ぶ!
(フルベッキは、後に「岩倉使節団」などを
提案したりする、開明的な人物です)

要するに大隈は、自分が学びたいことを
自由に学べることが大事だ、と考え、
それを実践した人
、なのです。

1867年と言えば、大政奉還の年。
彼は「脱藩」して京都に行きますが、
捕まって佐賀に戻され、謹慎処分を受ける。
薩摩藩、長州藩、土佐藩と違い、
「肥前の妖怪」は最後の最後まで
武力討幕派に加担しなかったのです。

でも逆に言えば、薩摩も長州も土佐も、
同士討ちや幕府との争いで
貴重な人材が次々と死んでいく。
肥前は、その間「勉強」して「温存」した。
だからこそ、維新後も活躍できた、と言える。

大隈重信も、維新後に大活躍します。

英語や外国事情に明るい。
脱藩も辞さない胆力もある、しかも天才。
イギリス公使パークスと対等に交渉します。
これが認められて、外交、財務、という
明治新政府で超重要な部門を任されます。


同じく頭角を現してきたのが、伊藤博文。

最初はこの二人、同志でした。
伊藤はイギリス留学経験のある男。
イギリスつながりで、ウマが合う。
この二人は、協力して大事業を進めます。

それが「鉄道」敷設事業でした。

「反動の者たちをくじくには鉄道を作り、
目を覚まさせるのが早い!」
大物、西郷隆盛たちの反対を押し切って、
彼らは外国から借金をしてまで
日本初の鉄道をつくります。1872年のこと。

岩倉使節団の際、伊藤は同行しますが
大隈は行きませんでした。
留守政府で大蔵省の実権を握る。
つまり、カネを握る。
カネを握った者が強いのは古今変わりません。
西南戦争後、大久保が暗殺された後には、
伊藤と組んで、がんがん改革を進める。

ところがですね。
1881年(明治14年)に「自由民権運動」
盛り上がりもあり、政府も
どうするかを考えなければならなくなった時。

大隈は、意見書を出しました。
「2年後に国会開設、英国流の政党内閣に」
びっくり仰天したのは伊藤博文。
彼はなにしろ、慎重な男です。
「できるわけないじゃないか」

折りしも、新聞上で北海道開拓使の
払い下げ問題が特ダネとして報道されていた。
とんでもないことだ、と犯人探し。
…ここで槍玉にあげられたのが、大隈でした。

「お前が新聞にリークしたんだろ!」
「自分の案を通そうとしやがって!」

何と大隈、政府をクビになります。
伊藤と、たもとを分かつ…。
人呼んで「明治14年の政変」です。

野に下った大隈は、立憲改進党を結成。
東京専門学校を早稲田の地につくる。
これが後の、早稲田大学です。

自由な学風があった。
自分で学ぶことを、自分で決め、学ぶ。
…それは、佐賀藩で「勉強」させられ、
反抗し、退学してまで自ら学んだ
反骨精神が生きているように思います。

後に大隈は、板垣退助と組んで
内閣総理大臣になったり(隈板内閣)、
大正時代に76歳で二度目の
総理大臣になったりと活躍します。
「政敵」となった伊藤博文と戦いつつも、
明治・大正の日本を動かしていく…。


最後にまとめましょう。

本記事では、大隈重信について、
早稲田や伊藤博文を中心に書いてみました。
早稲田大学が開設した時、
式典で伊藤は、こう挨拶したそうです。

「大隈は、さすがにえらかった。
永世不朽の育英の大事業に眼を着けた。
この伊藤、ただ頭を下げるほかは、ない」

現在でも早稲田大学は、
「私学の雄」として多くの青年に
門戸を開いています。

よろしければサポートいただけますと、とても嬉しいです。クリエイター活動のために使わせていただきます!