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「藤原信長」の有為転変 ~院政への入り口~

「藤原道長か織田信長の間違いですか?」
「『女神転生』のように合体させた?」

いえいえ。
ふじわらののぶなが。いるんですよ。
歴史上の人物で。

…ふつう、信長、と言えば「織田信長」です。
尾張のうつけものから、戦国の風雲児へ!
ドラマやマンガにひっぱりだこの、あの人。

ですが、太郎や一郎という名前の人が
世の中にたくさんいるように、実は
「信長」という名前の人もたくさんいます。
(マンガ『スラムダンク』でも
清田信長というキャラがいましたよね)

本記事ではそんな「信長」の一人、
「藤原信長」について書いてみます。
教科書には出てこないマイナーな人です。

平安時代の後半あたりで生きた人。
1022年~1094年。
いわゆる「藤原一族」の貴族の一員で、
太政大臣にまで上り詰めた大貴族。
あの藤原道長の孫!

大河ドラマ『光る君へ』の時代より
もう少し後の世代。
歴史の教科書にも太字で出てくる
超有名な「藤原道長」が
966年~1028年の人ですから、
その孫世代の人です。

ただ、白河天皇の「院政」が始まるのが
1086年のことですので、
藤原氏の「摂関政治」が「院政」によって
押さえられつつある頃に生きた人物。

言うなれば藤原信長は、
「藤原氏の栄華が衰えつつある頃」に
生きた人なのです。

…というより、この信長によって、
藤原氏の中でゴタゴタが起きてしまい、
藤原氏の権力が押さえられていった、

と言ってもいい。
歴史の転換を、期せずして起こした人。

さて、いったいこの信長、
何をやらかしてしまったのでしょうか?

職務放棄をしてしまったんですね。
朝廷に出てこない。意図的に。
その経緯を詳しく見ていきましょう。

彼の祖父、藤原道長は、
天皇の祖父になり「摂政」という位に就く。
道長の長男の
藤原頼通(ふじわらのよりみち)は、
道長の後を継いで
「摂政・関白」の位に就きます。

で、その頼通は、さらに自分の子どもの
藤原師実(ふじわらのもろざね)に、
関白の位を継がせようとするんですが、
「ちょっと待ったコール」をかけた人がいる。

「あの偉大な道長様は、頼通の次には
同じく道長様の子どもである
頼通の『弟』の教通(のりみち)
関白を継がせるように
遺言をしたではないか!」

…そうなんですよ。

実は藤原道長、まず頼通に後を継がせ、
そのあとは「弟」の教通が後を継ぐように
遺言してから死んでいたんです。
そのことを、天皇に嫁いでいたお姉さんが
強く主張してきた。次は教通だろ!と。

藤原頼通、困ります。

自分の子どもに後に継がせたいのに、
なんで弟に継がせなきゃならんのか?

でも、父の道長がそう遺言しているし、
天皇の後ろ盾を得た
お姉さんもそう言ってくる。
それに背くと大変なことになる…。

ということで、弟の藤原教通が、
関白に就任することになります。
でも、約束はさせた。

「一代限りだからね!
その後は、俺の子どもである
師実にちゃんと位を返してね!」

…ところが、この教通は
自分の子どもである
信長に後を継がせようとするんです。
やっぱり誰しも、自分の子どもが
かわいいんですかね。

当然、一族の間で権力争いが起きる。
いつの世も、相続は難しい…。

藤原教通の子ども、信長!
藤原頼通の子ども、師実!
道長の孫同士、いとこ同士で
バチバチバトルが始まってしまいます。
というか、道長の時代から、
いや、もっと前から、こんなんばっかです。

それを奇貨として、
時の天皇、白河天皇は画策する。

信長ではなく、師実を重用します。
関白の藤原教通が亡くなるとすぐ、
師実に関白になるように伝えたのです。
当時、内大臣であった信長は、怒る。

「ちょ、待てよ。俺が関白じゃないのかよ!」

怒って何をしたかというと、職務放棄。
…朝廷に出仕しなくなったんです。

このため、ちょっと困ったことになりました。

信長は内大臣。けっこう偉い。実力もある。
出仕してこないから、信長を出世させられない。
出仕してこないから、新大臣も任命できない。
それなら信長をクビにすればいいんですが、
実力者なので、それもやりにくい。
無理やりそんなことをした場合、
口実を得て逆襲してくるのは目に見えている…。

そのうちに他の大臣たちが死んで、
なんと信長だけが大臣、
という事態になってしまいました。
事実上、大臣一人だけ。でも出てこない…。
出てこなければ、何ともやりようがない…。

白河天皇も師実も、この信長に対して、
「ざっけんなよ、てめえ」
「それはやっちゃあかんやろ」
「政治をなんだと思ってるんだ」と
はらわたが煮えくり返る思いだったでしょう。

この状態が、なんと二年以上も続きました。
我慢強いな、信長。

ついに白河天皇は強権を発動、
事態を打開します。

信長を勝手に出世させ、
「太政大臣」に祭り上げたのです。

この頃の太政大臣は名誉職。
実権はありません。
こうして信長を名誉職に追い込んで、
改めて他の貴族たちを大臣に任命していく。
「師実のほうが偉いよ! 一族の長だよ!」と
宣言までしてしまった。

…こうして、暴挙に出た信長は、
いとこの師実との権力争いに敗北した。
一族から見捨てられ、位人臣を極めながらも、
寂しくこの世を去っていくのです。

なお、この藤原氏のゴタゴタに乗じて、
白河天皇は上皇になった後も
政治の実権を握ることになります。


そう、1086年「院政の開始」です。
藤原家の権力独占の衰えの始まり…。

まとめていきましょう。

藤原信長。道長の孫。
いとこの師実との権力争いに
ストライキによって対抗、でも敗北。

…この構図、現在の世界での
「会社の後継者争い」とかでも
あり得そうな構図
ですよね。

権力を握り続けようと
役職を手離さない実力者。
なかなか会社に来ないから
役員会議でも処分できない…。
そこで現社長は、彼を
実権のない顧問職に祭り上げ、
自分の腹心たちを重用していく…。

でも、そんな社内のゴタゴタによって
権力構造自体が変わっていく。
「会長」が「院政」を敷いていく。
その間隙に、野心家たちが力を蓄え、
いつの間にか会社組織自体も衰退していく…。


平安時代には、このゴタゴタによって
用心棒の侍たちが力を持っていき、
ついには「武士の世の中」が
来るようになります。

内向きの争いばかりに目を向けすぎて、
そこにパワーを吸い取られると、
組織自体が衰退していくもの。


藤原信長の生涯からは、
そんな教訓が読み取れるように思うのです。

さて、読者の皆様の組織はいかがでしょう?

不毛な「内向きの権力争い」に、
パワーを吸い取られていませんか?

本当にやるべきことを見失ってはいませんか?

※本記事は以前に書いた記事の
リライトです。
『藤原信長のストライキ』↓

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