【小説】Lonely葉奈with学5

——という一幕を経たは経たものの、結局その日の夜には葉奈は全部を学に打ち明けることになったのではある。
 椎茸、エノキダケ、白菜、豚肉、長ネギ等を真水で茹でて、ポン酢で食すだけの簡易な食事の用意を学がして、そろそろ落ち着いてもいるだろうと声をかけると果たして葉奈は下りて来て、普段通り、背の低いガラスのテーブルの脇に置かれた座椅子に座った。それでもまだいつものような元気はない様子で手指消毒の上「いただきます」と手を合わせ箸を取る葉奈の向かいに座って学が考えていたことは、葉奈の頬の、おそらくは自分で何かしたのであろう痛々しく傷になっていることだった。さっき学は葉奈の心情をくみ取ったつもりで核心には触れずに、だからその頬の傷のことにも一切触れずに済ましてしまったが、あれから数時間経ってなお、どうやら爪のあとと思しき傷が残っているのだ。言いたくないものを無理に言わせる必要はなかったしそれ自体は今でも間違った対応だったとは思わないが、その結果として結局俺は葉奈の頬の傷を、しっかりと見ておきながら放置したのではなかったか。二、三日で消えるものとは思うけれども万一、傷から悪い菌など入って化膿などすることがないとも限らぬというのに。傷自体が化膿しなくても傷から入ったばい菌が全く別の病気を引き起こさないとも言い切れぬというのに。それなのに俺はそういった心配を全然せずに、いや、心配な気持ちを確かにこの胸に自覚しながら、機嫌を損ねることを嫌ってなあなあに済ましてしまったのではなかったか、本当にそれでよかったか、このまま知らぬふりで傷を放置するのが優しさだろうか? 時々痛そうに頬に手をやったりしながらも気丈に、痛みなど、そもそも傷などないのだという態を装いながら、それでいて普段は一口で行くのが当たり前の椎茸をあまり顎を開けないで済むようかじって食べている葉奈を見ていると、逆にそのような虚偽の振る舞いを強いているのは自分なのではないか、とも思われて来て、とにかくも傷の消毒をしなければならない・したい、という気持ちが突き上げて来、
「消毒した方がいいかも」
 勃然と立って、冷蔵庫の上の常備薬の箱を取ったのである。
「べ、べつに――」
 と、葉奈が何か言いかけるのを遮って、
「さっきも気付いてたのに、ほんとはすぐ消毒した方が良かったのに、言って上げられなくてごめんね。言いたくないことは何も言わなくていいから傷だけ消毒しよう」
 と学は何か怒ったようにも見えなくはない顔つきで脱脂綿にマキロンを染ませる。
 そのような学の有無を言わせぬ態度に、学如きが生意気な、と葉奈は思いながら何故だかまた急に、もうすっかり収まったと思った筈の涙がさっきとはまた違ったニュアンスでむしろさっきよりも激しくこみ上げて来るのを感じた。今度は上を向いたり頬をつねったりの言い訳をする術もないから、もう堂々と泣くよりないようにも思われたが、このような成り行きのべっとりと後々まつわりついて来るであろう種類の涙は自分のためにも学のためにも何としてもこらえたいと考え、
「いいよ、自分でやるから」
 と、脱脂綿を学の手からひったくると乱暴に顔にぬりたくり、思いのほか傷に浸みて純粋に痛くて泣きそうになるのもここだけはとこらえ、「別にさぁ。何を気を回してるのか知らないけど。言うまでもないから言わなかっただけなんだけど」
 と、できるだけどうでも良いことのようにことのあらましを語ってしまってから、さっきは初めてのことで面食らってしまったのもあって見苦しい所を見せてしまったが、その後数時間も考えてみれば意地とかポーズとかではなく、スタンスでもなく、実際、本当にどうでも良いことのように思えてきた、今もどうでも良いことと思っている、思おうとしているのではなく思っているのだ、と述べた。あれだけ無様な姿をさらしたのだから気を遣われるのも仕方ないしありがたいという気持ちもないではないがこれ以上は必要ないからもう忘れて欲しい、とも付け加えた。
「分かった」
 とだけ学は言った。
 
 結局葉奈はツイッターもフェイスブックもインスタグラムもアカウントごと全部削除してやめてしまい劇団の方はこんなことになってしまった以上出演を辞退するのが適当か、こんな土壇場になって辞退する方が更に迷惑か、けどみんな怒っているだろうしもう顔を出したくないよ、、、これはもうバッくれるしかないよ、、、と考えていたところに向こうから連絡が入った。目をかけてくれている演出家の白川(この人の意向で、要はつてで、事務所に所属するでもなく劇団に所属するでもない葉奈が、今回の公演に出演することになっていたのだ。これまでにも大いに世話になっていた人でもある)から直接の電話で、今回の公演は中止することにしたとのこと。
 電話口で葉奈が、自分が要らぬことをしたせいで申し訳ないというようなことを言いかけると白川は、そうではない、葉奈ちゃんのツイッターのことがある前からちらほら言われていたことではあったのだ、日本中が殺気だって色々有名どころのアーティストのコンサートなどもやり玉に挙がって批難されているではないか、強行する所もあるにはあるが多くは断念している流れであるようだ、うちのような規模の小さい所は注目もされていないのだしなんとかこっそりやってしまえという意見の者もあってなかなか決断ができなかったが長い目で見ればやはり今はやめておいた方が良いという自分の判断で今回は諦めることにした、葉奈ちゃんのツイッターがとどめになったということはあるかも知れないがそのことがあろうとなかろうと似たような結果にはなっただろうから気に病まず、コロナが明けて活動できるようになったらまた力を貸して欲しい、と強ち建前でもなさそうな声色で言うのだった。それで話が終わりかけるのを引き留めて、
「あの、ほんとうに、こんなことにしようと思ってしたんじゃないんです、つい反論している内に劇団のせいみたいなことを言ってしまって――」
「それは分かってるからいいんだって。にしても大変だったね(笑)ところで学君も元気にしてるの?」
「え? あ、はい。学は、元気ですけど」
「それは良かった。じゃあ、他にも連絡しなきゃ行けない所があるから今日は切るね。今度ゆっくり学君も一緒に飲もうよ。それじゃ」
 と白川は電話を切った。どうやら白川自身は怒っている感じもなく葉奈を責める気持ちもなさそうなのはありがたいことでも返って申し訳ないことでもあったが、白川がそうであっても他の者がどう思っているかは分からない。分からないというか、きっと怒っているし、軽蔑もしているに違いないと葉奈には思えてならなかった。

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